本当は「昭和」ではなく「光文」だったのに「新聞にスクープされたから急遽差し替えた」という俗説が「誤りである」と言えるワケ
西園寺は再び元号選定に関わった
前掲の石渡論文が紹介したのは「第二章」のみだ。「第三章」は、平成期になって初めて内容が明らかになった。まずは「第二章」から概要を整理する。 「大正天皇御ご不豫大漸(著者注:病が次第に重くなること)に渡らせらるるや」、一木喜徳郎宮内大臣が「図書寮編修官吉田増蔵に内意を授け、左記五項の範囲内に於て、慎重に元号を勘進すべきことを命ぜり」と、以下の条件を示した。 一、元号は、本邦は固より言を俟たず、支那、朝鮮、南詔、交趾等の年号、其の帝王、后妃、人臣の諡号、名字等及宮殿、土地の名称等と重複せざるものなるべきこと。 一、元号は、国家の一大理想を表徴するに足るものなるべきこと。 一、元号は、古典に出処を有し、其の字面は雅馴にして、其の意義は深長なるべきこと。 一、元号は、称呼上、音調諧和を要すべきこと。 一、元号は、其の字画簡明平易なるべきこと。 最初の項目に挙げたのは、過去に日本や他国で使用された元号との重複を避けることだった。明治が過去に使われた「南詔」(かつての大理。現・中国雲南省)や、大正が使われた「交趾」(かつての安南。現・ベトナム)の元号も、考慮するべきだと明記した。 吉田は「先ず三十余の元号を選出し」、その後に第一案として「神化」「元化」「昭和」「神和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」の10種を作成した。一木宮内大臣はこれを半数に絞るよう「綿密に諮問」し、第二案として「昭和」「神和」「神化」「元化」「同和」の5つを選んだ。さらに、精査を経た第三案が「昭和」「神化」「元化」だった。 一木は「昭和」を含む3つの案を、牧野伸顕内大臣と元首相の西園寺公望の賛同を得た上で、若槻礼次郎首相に提出した。西園寺は前回の改元に首相として関わっただけでなく、今回は最後の元老として政界に影響力を持っていた。考案者の元号案が次々と首相に退けられた大正改元に比べ、「昭和」は首相に届いた段階で精査済みだった。 一方、若槻首相は「亦、万一の場合に際し」、内閣官房総務課事務嘱託の国府種徳にも考案を命じた。前回、「大正」を提案した人物である。国府は「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」の五案を提出した。 吉田案と国府案について若槻と一木が「綿密なる商議」をした結果、第一案を「昭和」とし、参考として「元化」「同和」を添付することになった。いずれも吉田が考案したものだった。