本当は「昭和」ではなく「光文」だったのに「新聞にスクープされたから急遽差し替えた」という俗説が「誤りである」と言えるワケ
100年前に「大正」から「昭和」への改元を準備した漢学官僚、吉田増蔵。その上司として晩年に元号制度の整備に力を注いだのが、文豪・森鷗外でした。 【マンガ】外国人ドライバーが岡山県の道路で「日本やばい」と驚愕したワケ これまで注目されることがなかった当時の公文書を緻密に研究する中で、元号を巡る日本政府の内情と、鷗外の知られざる「官僚」としての真意が浮かび上がってきます。 ※本記事は野口武則『宮内官僚 森鷗外「昭和」改元 影の立役者』から抜粋・編集したものです。
全面公開された『昭和大礼記録』
元号を巡る鷗外と吉田増蔵の関係は、作家・猪瀬直樹がデビュー作『天皇の影法師』(初刊は1983年、朝日新聞社)で紹介した。『鷗外日記』の大正11年6月20日条にある「事を託す」について、猪瀬は「鷗外が吉田に託した事とは未完の『元号考』を完成させることだったとみて間違いない」と指摘する。 『天皇の影法師』は昭和改元の経緯について、国立公文書館の石渡隆之・公文書専門官の論文「公的記録上の『昭和』」を根拠に論を進める。石渡論文が引用したのは、国立公文書館が蔵する『昭和大礼記録』第一冊の改元に関する部分だ。 猪瀬の著作やそれを基にしたその後の研究書は、いずれも石渡論文で引用された『昭和大礼記録』を基にする。ただし、石渡論文が紹介するのは、『昭和大礼記録』に記された改元記録の一部でしかない。 猪瀬が『天皇の影法師』を出版した当時、時代はまだ昭和だった。『昭和大礼記録』について「この本は特別の許可がない限り閲覧できない。原本を見ることが出来なかった」と記している。 平成期になってようやく、『昭和大礼記録』の原本が国立公文書館と宮内公文書館で閲覧できるようになった。昭和改元の背景にあった鷗外の問題意識と吉田との師弟関係を明かした猪瀬著は、昭和の時代としては画期的な論考だった。だが、今や時代は平成を経て令和に改まった。新たな史料に基づき更新される時を迎えている。 『昭和大礼記録』第一冊の改元部分(655~684頁)は、以下のような構成になっている。 第二章 元号建定の次第 第一節 元号案並ならびに元号建定詔書案作成の次第 第二節 元号建定の上奏並に枢密院諮詢 第三節 枢密院議長の上奏並に通牒 第四節 元号建定詔書の奏請並に公布 第三章 参考 一 元号建定に関する沿革概要 第一 改元の度数 第二 勘進及難陳 第三 勘進の標準 第四 元号の重複 第五 元号の詮考 二 元号建定に就きての謹話及新聞社説 (一)昭和元年十二月二十六日 諸新聞掲載 内閣総理大臣若槻礼次郎謹話 (二)同 文学博士市村瓉次郎謹話 (三)昭和元年十二月二十六日 東京朝日新聞社説