【山手線駅名ストーリー】 徳川慶喜は鉄道建設の騒音に耐えかねて逃げ出した!? 今もにぎわう "おばあちゃんの原宿" といえば巣鴨!
「とげぬき地蔵」誕生秘話
巣鴨には江戸六地蔵のひとつを祭った真性(しんしょう)寺がある。江戸に出入りする旅人の安全を祈願して街道沿いに寺に造立された菩薩で、真性寺は中山道の入り口にあった。 実は「巣鴨のお地蔵さん」といえば、江戸時代は真性寺を指していた。徳川将軍が鷹狩りをする際、休憩所とする寺でもあった。
また『新編武蔵風土記稿』には、江戸時代を通じて14回、将軍が巣鴨にある「染井に御成になった」と記されている。江戸城や大名屋敷の庭園に植木を納めていた業者が、染井にいたからである。 1727(享保12)年、のちの9代将軍・家重に盆花を献上したといわれる伊藤伊兵衛、1812(文化9)年~1829(文政12)年頃に将軍家御用達の植木屋となった野嶋権左衛門など、将軍と染井の結びつきは強い。
植木屋たちはさらに、1本の茎に多くの菊を接(つ)ぎ木する接分菊(つぎわけぎく)を開発した。これが将軍・大名のみならず一般庶民をもとりこにし、染井には多くの見物客が訪れた。染井の植木屋が品種改良した桜が、「ソメイヨシノ」だったともいわれ、一大園芸センターとして隆盛していく。 染井は現在、行政地名からは姿を消したが、「染井霊園」などにその名を残す。霊園は住所こそ豊島区駒込5丁目だが、最寄り駅は巣鴨だ。 このように巣鴨は、六地蔵・植木・桜など江戸の人々を引きつける魅力を持った地だった。だが、明治に入ると都市化・宅地化の波にのまれ、植木屋は次第に衰退していった。
一方、お地蔵さまは新たな展開を迎えることになった。1891(明治24)年、下谷(現在の東京都台東区上野)からある寺院が巣鴨に移転してきた。 高岩寺──「とげぬき地蔵尊」である。 大石学・東京学芸大学名誉教授によると1874(明治7)年、東京府が「府下墓地取扱規制」を交付。墓地以外に遺体を埋葬してはならないとして、代わりに渋谷・青山・染井などの9カ所に共同墓地を設置した。 同時にそれまであった寺院にも、墓地ごと移転するよう促した。実質的な寺の整理令といえよう。これによって、あちこちの寺が移転を余儀なくされた。高岩寺もそのひとつだった(『駅名で読む江戸・東京』PHP新書)。 それまで根を下ろしていた土地から移転した寺は、参拝客の激減に見舞われた。そこで集客のため縁日を開催するようになった。高岩寺の縁日は、多くの露店が出て大変なにぎわいをみせた。 高岩寺の本尊は「延命地蔵」と言われる。ある時、誤って針を飲み込んでしまった女性に、本尊の姿を紙に写しとった「御影(おみかげ)」を飲ませると、針が御影を貫いて口から出てきたことから、「とげぬき地蔵尊」として評判となり、病気平癒の御利益を願って多くの人が訪れるようになった。 こうして「巣鴨のお地蔵さん」は、真性寺から高岩寺へと取って代わることになったのである。