吉田玉男「師匠といた時間は父親よりも、誰よりも長かった。伝統芸能の中で世襲制でないのは唯一、文楽だけ。努力をちゃんと認めてもらって」
◆襲名したほうがいいのかな ――第二の転機といえば、やはり玉男襲名でしょうけど、師匠が平成18年、87歳で亡くなって。その少し前まで重さが10キロ近くある熊谷だの知盛だのを遣ってて、よくやれたなと思ってます。 それで、勘十郎さんは平成15年に吉田簑太郎からお父さんの名前の桐竹勘十郎を襲名してるし、簑助師匠も襲名をすすめてくれたんですが、お袋が「そんなんやめとき、お金もかかるし、一生玉女で行ったらええねん」て。 お袋は平成25年に亡くなるんですが、その年の11月に大阪で『伊賀越道中双六』の唐木政右衛門を遣っていたら、なんかこう、ふつふつと力が湧き上がる感じがして、やっぱり襲名したほうがいいのかな、という気になって。でも一人ではどうにもならんし。 そしたら家内が、何もかもやるから、って言ってくれて、それでようやく決心がつきました。 二代目吉田玉男襲名は、平成27年四月、大阪・国立文楽劇場で、役は『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋の段」の熊谷次郎直実。その時の引出物を私は今も大事に持っているが、緑色の地に白く「転女成男(てんにょじょうなん)」の文字が染め抜かれた手拭、扇、紋入りの帛紗(ふくさ)、大阪錫器のタンブラーだった。 ――熊谷を遣ってていつも思うのは、昭和55年、僕が25、6の時に若手向上のための勉強会があって、初めて熊谷のいを、師匠が左遣いでやらせていただいた時のこと。僕が血気に逸って前へこう、踏み出そうとすると、「まだや」という感じで、グッと腰で合図が来る。 そこへ来るといつも師匠の腰の合図を思い出します。それと、師匠は何百回も遣った役でも、舞台稽古が始まる前に必ず床本(太夫が浄瑠璃を語る時に使う本)を読むんですよ。そうすれば必ず何かそれまで気づかなかったことの発見がある、って。ですから僕も当然、そうしています。 考えてみると、師匠といた時間は父親よりも、誰よりも長かったですね。
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