現実と夢の区別はつかない!?恐山の禅僧が説く「苦」の正体と、現代における「諸行無常」とは
厚生労働省が行った「令和4年 国民生活基礎調査」によると、悩みやストレスの原因として最も多く回答されたのは「自分の仕事」、次いで「収入、家計、借金等」だそうです。人生には数多くの「苦」があるなか、「生きているだけで大仕事。『生きることは素晴らしい』なんてことは言わない」と話すのは、恐山の禅僧・南直哉さん。今回は、南さんが説く、心の重荷を軽くする人生訓を自著『苦しくて切ないすべての人たちへ』より、一部お届けします。 【写真】恐山・風車が供えられた岩場で合掌する南さん * * * * * * * ◆「苦」の正体──覚めない夢、破れる現実 学校と相性の悪かった私は、学生時代に数々の苦杯を舐めたが、その幾つかは余程のトラウマとなったのか、50を過ぎても夢に出て来た。 一つは、高校の定期テストで、科目は何かわからないが、1問もわからず、このままだとゼロ点だという瀬戸際に追い込まれて、あまりの焦燥で失禁しかけたとき、なぜか着ている服の袖が作務衣であることに気づいて、「あれ?」と思った途端に目が覚める、というものである。 もう一つは、どういうわけか、永平寺への入門が決まったのに大学の単位が足りず、卒業できなくなる夢である(実際には卒業後、一般企業に就職してから出家した)。 浅知恵でよく知らない洋酒を買い、それを持参して指導教授(それがいたのかも今やわからない)のところに、泣き落すつもりで駆けつける途中、思い切り転んでしたたか顔面を打ち、あまりの痛さに両手で顔を覆ったら、服の袖が作務衣──。 このように馬鹿げた夢を、50を過ぎても、疲労が蓄積すると決まって見ていた。ただ、馬鹿げていることは確かだが、見ている最中は正しく「現実」である。あの焦燥は実際に大量の寝汗をかかせ、私を疲労困憊にさせたのである。
◆現実と、夢の中の「現実」 では、目覚めている時の現実と、夢の中の「現実」はどこで区別したらよいのか。現実と「現実」、それぞれの内容では区別できない。「現実」がいかに馬鹿げていようと、「現実」の中にいる人物には現実なのだ。 この区別は、「現実」から目覚めるかどうか、それだけにかかっている。よく「夢が破れる」と言うが、それは違う。「現実」が破れて夢になるのである。 したがって、今度は逆に、大災害や突然の戦争などで、日常生活という現実の方がいきなり破壊されると、人は茫然として「悪夢を見ているようだ」と言うのである。また、認知症が次第に進むと、当人は「夢と現実の区別がつかない」と言い出すことがあるのだ。 ということは、現実と「現実」、すなわち現実と夢の違いは、そう当たり前なことではない。夢がイメージなら、我々の現実も実はイメージである。我々は自分の身体をメディアにして、外界を五感などの感覚器官を通じて認識しているに過ぎない。認識しているのは、ナマの外界そのものではなく、そのイメージを現実として構成しているのだ。
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