「本音を隠さない人」はやっぱり損していた…断言できる“3つの理由”
周囲に不快感を与えない「気遣い」が前提
イギリスの哲学者、サイモン・ブラックバーンの著書『Mirror, Mirror(ミラー・ミラー)』(未邦訳)の中に、ロンドンのウエストミンスター寺院で行われた、チャールズ・ダーウィンの葬儀についての記述がある。 ダーウィンの長男である(そして葬儀の重要な出席者でもあった)ウィリアムは、葬儀のときに最前列に座っていた。 だが葬儀の最中、不意に自分の髪の薄い頭にすきま風が当たるのを感じた彼は、はめていた黒い手袋を両方外して毛のない頭の上に載せた。世界中が注目する葬儀のあいだ中、手袋はずっと頭の上に置かれたままだったらしい。 このウィリアム・ダーウィンのしたことは、架空のランチデートの相手、リサの言動よりはましかもしれない。 だが、このふたつのケースで明らかなことがある。自分の本音をオープンにしすぎるのも考えものだということだ。 どんな場合も、一定の礼儀やマナーや自制心はあってしかるべきなのだ。周囲に不快感を与えないための気づかいといいかえてもいいだろう。 インターネット上では、もうとっくに私たちはリサのレベルまで落ちてしまっているが、せめて誰かと面と向かっているときぐらいは気をつけたいものだ。 ネットの世界では、たとえば寝る前に自撮り動画とともに本音を吐露して周りと共有しようとしない人は、内にこもった閉鎖的な人のように扱われる。だが実際には、本音といいながらもネットで公開しているものはただのパフォーマンスにすぎない。見るほうもそのことはちゃんと承知している。 ネットの世界の本音は、本当の意味での本音ではない。では、「本当の本音」は、どのように扱えばよいのだろう?
本音をさらけ出さないほうがいい理由
いずれにしても、本音をあけすけに語ることをあまり重視しすぎるのはやめたほうがいい。理由はいくつかある。 まず、私たち自身、自分のことを本当にわかっているとはいえない。私たちの心の声は信頼のおけるコンパスとはいいがたく、ちぐはぐな動きでいつも私たちを混乱させる。私たちには自分のことがわからない。そんな私たちが自分の本音を語ることにどんな意味があるだろう? 本音を語っていい相手は、あなたをよく知るあなたのパートナーやごく身近な友人たちで、表面的な付き合いしかない知り合いに本音を語ってみても何もならない。ましてや、公共の場で本音をさらけ出すなどもってのほかだ。 ふたつ目の理由は、本音をあけすけに語っても、自分をこっけいに見せるだけだからだ。 有名政治家や、軍の司令官や、女性哲学者や、経済界の大物や研究者など、あなたが大いに尊敬している著名人の中で、折に触れて公の場で胸中を打ち明けている人物がいるだろうか? おそらく誰も思いつかないだろう。 自分の心のうちを語っても尊敬は得られない。口にした約束を果たすからこそ尊敬されているのだ。 三つ目の理由は、細胞のつくりを考えてみるとよくわかる。細胞は生命の基本単位。どの細胞も、細胞膜に包まれている。有害な物質の進入を防ぎ、バリアを通過させる分子を正確に選別するのが細胞膜の仕事である。生物レベルでもやはり、同様の働きを持つ同じような仕組みがある。動物には皮膚があり、植物には樹皮がある。外側との境界のない生物は長くは生きられない。 人間の本音をさらけ出すオープンさの度合いは、すなわち心理的なレベルでの「バリアの厚み」のようなものだ。バリアをまったく持たずに本音をむき出しにするのは、周りの人に、「自分を都合のいいように利用してください」と差し出しているようなものであり、自分をこっけいに見せるだけでなく、周りから攻撃されやすくなるだけだ。