「もう、ここしかないんです」...金も健康も後ろ盾も失った元ストリッパーに、権力と闘う「政治活動家」が手を差し伸べたワケ
1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。 【漫画】床上手な江戸・吉原の遊女たち…精力増強のために食べていた「意外なモノ」 「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。 『踊る菩薩』連載第109回 『「ビール、もう一杯もらっていいですか」...写真週刊誌記者が目にした、伝説のストリッパー一条が午前八時から酒をあおる「衝撃の姿」』より続く
最後に頼むのは、ここしかない
年が明け、95年になるとすぐに阪神・淡路大震災が起きた。神戸や芦屋、西宮に比べると、釜ケ崎の被害は小さかった。その後、ここの労働者たちも震災復興の建設・土木工事現場に駆り出されていく。 地震から5ヵ月が経ったころ、一条は稲垣を訪ねた。彼は91年の選挙で、一条に推薦してもらいながらも落選していた。 3月に発生したオウム真理教信者による東京・地下鉄テロで、社会はいまだに落ち着きを取り戻していなかった。稲垣が彼女の顔を見るのは久しぶりだった。稲垣は回想する。 「池田さん(一条)がここ(釜ケ崎解放会館)を訪ねてきて、『最後に頼むのは、ここしかない』ということやったんや」 一条は糖尿病と飲酒による肝機能障害で入退院を繰り返していた。阿倍野区の相原第2病院に入院しているとき、医師から「稲垣さんに相談したら」と言われたらしい。 病院の事務員からは早く退院するよう求められ、福祉施設に入ってはどうかと提案されている。一条は施設に入るのを嫌がった。できるだけ行政の世話になりたくなかった。元気になってまた働きたいとの希望も捨てていない。
稲垣からの提案
しかし、彼女の体力は、働くことを許さなかった。身寄りもなく、体調が突然悪化しても、一人で対応しなければならない。誰かが近くにいるほうが安心と考えた医師は、稲垣に頼るのが現実的と判断した。稲垣は一条にこう提案した。 「うちの上のアパートが空いているから入るか?狭いし古い。しかも、湿気てるけどええか?」 「そうさせてください」 稲垣は意外な気がした。あれだけ有名で男性にもてるのだから、支援してくれる人がきっといると思えたからだ。 一条が入ることになった解放会館は5階建ての古いビルである。かつてドイツのキリスト教団体が所有し、神父7人が1階を食堂、2階以上を住居にしていた。彼らが別の場所に移ると知った稲垣は、極秘に買い取り交渉を進めた。情報が漏れると、稲垣の活動拠点になるのを警戒する警察に、計画を潰されかねなかった。 当時、稲垣たちは近くのアパートを事務所とし、釜ケ崎周辺の公園で炊き出しをしていた。行政から立ち退きを迫られるたびに、別の公園に移らねばならなかった。 炊き出しの雑炊は公園で配るとしても、それを調理し、器具を保管でき、事務所にも使える施設がほしかった。