時代考証が解説! 紫式部の父為時も苦労した受領と任地の関係とは?
都が恋しいと詠む紫式部
この長徳二年(九九六)の秋、為時(ためとき)は越前(えちぜん)に赴任し、紫式部は父に従って越前に下向(げこう)した。この時、紫式部の身上に、誰か(特に宣孝〈のぶたか〉)との色恋沙汰が持ち上がっていたのかどうかは、明らかではない。妻を伴わなかった為時が赴任するに際して、当面の世話をするために、紫式部が同行したと考えても、何ら差し支えはないのである。もちろん、道長のまったく与(あずか)り知らぬことであった。 京を出て鴨川を渡り、粟田口(あわたぐち)から山科(やましな)を経て逢坂(おうさか)山を越え、一行は大津の打出浜(うちいでのはま)から舟で琵琶湖西岸を北上した。打出浜というのは逢坂越えの谷口より打出た浜の意味で、現在の浜大津(はまおおつ)から瀬田(せた)川河口にかけての湖岸、におの浜のあたりであろう。 紫式部は、高島の三尾(みお)が崎の湖岸(藤原仲麻呂が殺された勝野〈かつの〉のこと)で、漁師が網を引く姿を見て、早くも都を恋う歌を詠んでいる。 ---------- 三尾の海に 網引く民の てまもなく 立ち居につけて 都恋しも (三尾が崎で網を引く漁民が、手を休めるひまもなく、立ったりしゃがんだりして働いているのを見るにつけて、都が恋しい) ---------- また、夕立が来そうで空が曇り、稲妻が閃(ひらめ)いて波が荒れた時には、これまで舟に乗る経験もなかった紫式部の心は落ち着かなかった。ドラマでも実際に舟を作って琵琶湖を航行しようとしたのであるが、帆柱が折れて大変だったようである。 ---------- かきくもり 夕立つ波の あらければ 浮きたる舟ぞ しづ心なき (空一面が暗くなり、夕立を呼ぶ波が荒いので、その波に浮いている舟は不安なことだ) ----------
「世渡りの道はつらい」
やがて琵琶湖北岸の塩津(しおつ)に上陸した。そして近江と越前の国境である塩津山を越え、敦賀に入った。「深坂(ふかさか)越え」と呼ばれるこの道は、現在も古道がよく残されている。塩津山を越えた際には、紫式部の輿(こし)を担ぐ「下賤な男で粗末な身なりをした」人夫の、「やはりここは難儀な道だなあ」というぼやきに呼応した歌を詠んだ。 ---------- 知りぬらむ ゆききにならす 塩津山 よにふる道は からきものぞと (お前たちもわかったでしょう。いつも往き来して歩き馴れている塩津山も、世渡りの道としてはつらいものだということが) ---------- 輿の上の姫君から、「世の中は辛いものだよ」と諭(さと)されて、輿を担いでいた人夫たちもさぞや驚いたことであろう。まだまだ紫式部も若くて世間知らずだったのである。 敦賀からは、海路で杉津(すいづ)に上陸して元比田(もとひだ)から「山中(やまなか)越え」をするにせよ、陸路で木ノ芽(きのめ)峠を越えるにせよ、今庄(いまじょう)まではたいへんな難路である。その後、湯尾(ゆのお)峠を越えて、越前国府(えちぜんこくふ)に入った。この間に詠った歌は、『紫式部集』に載せられていない。よほどたいへんだったのか、思い出したくなかったのであろう。