時代考証が解説! 紫式部の父為時も苦労した受領と任地の関係とは?
弱り目に祟り目の定子
四日に出家姿で二条北宮に戻ってきた伊周は、母の高階貴子(たかしなのきし)を伴って網代車に乗り、出発したが、一条は貴子の同行を許さなかった。それでも伊周は貴子を同行して京を出たが、翌五日、「母氏、相副(そ)うべからざる由」との一条の宣旨が追い付いた。十二日、領送使は、伊周は病によって発向(はっこう)することができないということを言上(ごんじょう)し、隆家は病によって丹後(たんご)国に逗留するということを言上した。その結果、病が癒えてから任所(にんしょ)に送るようにという宣旨が下された。 結局、十五日、伊周は播磨(はりま)、隆家は但馬(たじま)に留められた。もしかすると詮子から一条に指示があったものかもしれない。 定子の方は弱り目に祟(たた)り目で、六月八日に御在所の二条北宮が焼亡(じょうもう)してしまった。実資が慨嘆したように、まさに「禍福(かふく)は糾(あざな)える纆(なわ)のごとし」であり、『枕草子』が、「殿(道隆)などのおはしまさで後、世の中に事出で来、騒がしうなりて、宮もまゐらせたまはず、小二条(こにじょう)殿といふところにおはしますに、……」と述べている状況が、瞬(またた)く間に定子とその周辺に押し寄せてきたのである。
次々と入内する有力公卿の女たち
この頃、一条の後宮に、はじめて変化が現われた。定子の後見が没落し、キサキとしての地位が危機に瀕している状況にあって、次々と有力公卿の女が入内(じゅだい)したのである。詮子や道長としても、彰子が成人するまでは、定子の対抗馬として彼女たちに期待する部分もあったものと思われる。 まず七月二十日、筆頭大納言藤原公季(きんすえ)の女で二十三歳、一条より六歳年上の義子(ぎし)が入内した。康子(こうし)内親王を母とし、皇族にも准じる扱いを受けていた公季と、有明(ありあきら)親王女との間に生まれた義子は、その血筋においては、高階氏を母とする定子よりも優越していた。しかし、義子は一向に懐妊した形跡がない。一条が義子との間に懐妊の「機会」を遠ざけたのであろう。 それが影響したのか、十一月十四日、右大臣藤原顕光(あきみつ)の女で十八歳とされる元子(げんし)が入内した。すでに正暦(しょうりゃく)五年(九九四)に東宮(とうぐう)居貞(おきさだ)親王は、故大納言藤原済時(なりとき)の女である娍子(せいし)から敦明(あつあきら)を儲けている。自己の皇統(こうとう)を存続させるためには、詮子や一条としては定子以外のキサキとの間にも懐妊の「機会」を設ける必要があったのである。 元平(もとひら)親王女を母とした顕光と、盛子(せいし)内親王との間に生まれた元子もまた、定子よりも優越した血筋の女性であった。元子は、翌長徳三年(九九七)六月二十二日に定子が再び職曹司に入るまでの間は、おそらくは一条の「寵愛(ちょうあい)」を一身に集めた。 十月に入り、中関白家の動きが慌ただしくなった。貴子の病が篤(あつ)くなったこと、定子の出産の日が近づいていることによるのであろう。 八日、伊周が秘かに入京しているとの密告が、中宮(ちゅうぐう)大進(だいしん)平生昌(なりまさ、実際には平孝義〈たかよし〉)の周辺から行なわれた。検非違使が探索したところ、伊周は定子の許に隠れており、十日、伊周は大宰府(だざいふ)に追い下された。実資は「積悪(せきあく)の家、天譴(てんけん)を被(こうむ)るか。後人(こうじん)、怖(おそ)るべし」と嘆いている。これはかつて藤原不比等(ふひと)が謳った「積善(せきぜん)の藤家(とうけ)」をもじったものである。