モテ期訪れた玉木代表へ、「浮かれたらダメ、権力のためなら『何でもあり』が自民党、まずは旧社会党の失敗に学べ」
■ 村山内閣 羽田内閣瓦解を受けて、自民党は政権復帰を目指して、社会党、新党さきがけと連立政権を樹立することにした。この動きに反発する自民党議員もいたが、権力奪還を至上命令とする自民党の多数は、社会党の村山富市を首班にすることで連立政権樹立を目指した。自社さ政権に反対する海部俊樹と村山富市とが衆議院の首相指名選挙の決選投票で対峙したが、村山が261票対214票で海部に勝利した。 こうして、1994年6月30日に村山内閣が成立し、1996年1月11日まで続いた。その後を橋本龍太郎が引き継いだが、自社さ政権の継続であった。1996年10月に総選挙が行われ、自民党は239議席(総数500議席)と28議席積み増した。そして、11月7日、社民党(1996年1月に社会党が名称を変更)、新党さきがけが閣外協力に転じ、第2次橋本内閣が成立した。 1997年9月には第2次橋本改造内閣が発足した。1998年5月には離党議員の復党などにより自民党は衆議院で単独過半数を越えた。そこで、社民党、新党さきがけとの連立を完全に解消した。社会党のトップを内閣総理大臣に据えるという離れ業を断行してから、4年後に、自民党単独政権への復帰に成功したのである。 自民党の飽くなき権力への渇望である。自民党は、「政権復帰するために使える手をなんでも使うという執念」(亀井静香)を持っているのである。右派の石原慎太郎や中尾栄一まで村山首班に賛成しており、イデオロギーなど関係なく、権力のみを追求するのである。 自民党の政権復帰に利用された社会党(社民党)は、その後凋落の一途を辿ったことは周知の通りである。自民党は、他党を食って自己増殖を遂げる恐るべき存在なのである。国民民主党の玉木にその認識はあるのであろうか。 小選挙区制の導入は、二大政党制、定期的な政権交代を企図するものであった。2009年夏の自民党から民主党への政権交代は、まさにその意図通りのものであった。しかし、その後の多党化の進展、そして今回の自民党の勢力減は、新たな連立政権の時代が幕開こうとしているのかもしれない。日本の政治の大きな転機となる可能性がある。 【舛添要一】国際政治学者。株式会社舛添政治経済研究所所長。参議院議員、厚生労働大臣、東京都知事などを歴任。『母に襁褓をあてるときーー介護 闘いの日々』(中公文庫)、『憲法改正のオモテとウラ』(講談社現代新書)、『舛添メモ 厚労官僚との闘い752日』(小学館)、『都知事失格』(小学館)、『ヒトラーの正体』、『ムッソリーニの正体』、『スターリンの正体』(ともに小学館新書)、『プーチンの復讐と第三次世界大戦序曲』(インターナショナル新書)、『スマホ時代の6か国語学習法!』(たちばな出版)など著書多数。YouTubeチャンネル『舛添要一、世界と日本を語る』でも最新の時事問題について鋭く解説している。
舛添 要一