モテ期訪れた玉木代表へ、「浮かれたらダメ、権力のためなら『何でもあり』が自民党、まずは旧社会党の失敗に学べ」
■ 野党連合の試み 野党第一党の立憲民主党の野田代表は、10月30日、維新の会の馬場代表や共産党の田村委員長と会談し、特別国会での首相指名で自らに投票するように求めた。田村は、企業・団体献金の禁止に取り組むことなどを条件に前向きに検討すると答えているが、馬場は、石破にも野田にも投票しないことを明言した。 特別国会は、11月11日に召集される予定であるが、玉木は首相指名の決選投票でも自らの名を書くと述べている。それは、結果的に石破が決選投票で野田に勝つことを意味し、自民党を利することになる。 かつての民主党は、今の立憲民主党や国民民主党などに分裂したが、両党の政策をみてみると、国民民主党の政策は立憲民主党よりも自民党に近い。野党が大同団結すれば政権交代は可能なのであるが、両者がそうできないのも政策の違いが大きすぎるからである。 因みに、自民党はかなりの政策の違いがあっても、貪欲に他勢力を取り込んでいく。それが実は、自民党が権力を維持している秘訣でもある。 立憲民主党は、11月1日には国民民主党と幹事長会談を行い、政治改革の実現で合意を図ろうとしており、首相指名選挙での野党勢力の結集を図ろうとしている。しかし、その実現は容易ではない。 国民民主党は、自民党と立憲民主党の双方からラブコールを受けており、マスコミからも注目の的になっている。
■ 細川内閣 自民党が単独で過半数を獲得できなくなると、他党と連立政権を組んで過半数に到達する。それは、他の民主主義諸国でも同様である。 今の自公連立政権は1999年の自民党、自由党、公明党の「自自公」連立から始まったが、2009年~2012年の野党時代(民主党政権時代)を除いて、今日まで政権の座にい続けている。 さらに遡って見る。1993年7月の総選挙で自民党は単独過半数に達しなかった。自民党を離党した羽田孜の新生党、武村正義らの新党さきがけ、細川護熙の日本新党、社会党が躍進した。新生党は、社会党、公明党、民社党、社会民主連合、民主改革連合と連立政権を樹立することで合意した。日本新党と新党さきがけは、統一会派を結成し、政治改革の断行を条件に、自民党と新生党の双方と連立交渉に入った。 日本新党と新党さきがけが、キャスティングボートを握ったわけである。非自民の新生党側は細川首相を提示し、日本新党を取り込んだ。日本新党は、社会党、新生党、公明党に次ぐ第4党にすぎなかったが、これによって非自民連立政権が誕生したわけである。新政党代表幹事の小沢一郎の豪腕であった。自民党の宮沢喜一内閣は下野した。 細川内閣の下で選挙方式が従来の中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に変更された。 今の政局と比較すれば、国民民主党は当時の日本新党や新党さきがけと同じ立場、つまりキャスティングボートを握っている。また、政治改革の実現が協力のための条件となっていることも同じである。 細川内閣は、政治改革は実現したが、細川首相が唐突に国民福祉税構想を打ち上げたために政権内に亀裂が走り、また細川の佐川急便グループからの借入金処理問題を国会で追及され、1994年4月25日に退陣した。 その後4月28日には、非自民・非共産を継続した新生党の羽田内閣が誕生した。しかし、社会党が連立から離脱し、少数与党内閣となった。自民党と社会党の反発によって、6月30日には羽田内閣は退陣した。在任64日という短命内閣であった。