男も女も全身全霊ではなく半身で働く…仕事以外の「ノイズ」も聴ける余裕が「働きながら本も読める」社会をつくる
■ 本を読むことで触れる他者の文脈 1冊の本のなかにはさまざまな「文脈」が収められている。だとすれば、ある本を読んだことがきっかけで、好きな作家という文脈を見つけたり、好きなジャンルという新しい文脈を見つけるかもしれない。 たった1冊の読書であっても、その本のなかには、作者が生きてきた文脈が詰まっている。 本のなかには、私たちが欲望していることを知らない知が存在している。 知は常に未知であり、私たちは「何を知りたいのか」を知らない。何を読みたいのか、私たちは分かっていない。何を欲望しているのか、私たちは分かっていないのだ。 だからこそ本を読むと、他者の文脈に触れることができる。 自分から遠く離れた文脈に触れること─それが読書なのである。 そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。 自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。 仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ。
■ ノイズを受け入れる余裕を持ちたい しかしこの社会の働き方を、全身ではなく、「半身」に変えることができたら、どうだろうか。 半身で「仕事の文脈」を持ち、もう半身は、「別の文脈」を取り入れる余裕ができるはずだ。 そう、私が提案している「半身で働く社会」とは、働いていても本が読める社会なのである。 仕事だけではないかもしれない。育児や介護、勉強、プライベートの関係。そういったもので忙しくなるとき、私たちは新しい文脈を知ろうとする余裕がなくなる。 新しい文脈を知ろうとする余裕がないとき、私たちは知りたい情報だけを知りたくなる。読みたいものだけ、読みたくなる。 未知というノイズを受け入れる余裕がなくなる。長時間労働に疲れているとき、あるいは家庭にどっぷり身体が浸かりきっているとき、新しい「文脈という名のノイズ」を私たちは身体に受け入れられない。 それはまるで、新しい交友関係を広げるのに疲れたときに似ている。未知の他者と会って仲良くなるには、自分に余裕がないといけない。それは仕事の文脈しか頭に入ってこないときに、新しい分野の本への感受性を失っている体験にとてもよく似ている。 だが新しい文脈という名のノイズを受け入れられないとき。 そういうときは、休もう。 と、私は心底思う。 疲れたときは、休もう。そして体と心がしっくりくるまで、回復させよう。 本なんか読まなくてもいい。趣味なんか離れていいのだ。しんどいときに無理に交友関係を広げなくていい、疲れているときに無理に新しいものを食べなくていいのと同じだ。 そして─回復して、新しい文脈を身体に取り入れたくなったとき、また、本を読めばいいのだ。 そんな余裕を持てるような、「半身で働く」ことが当たり前の社会に、なってほしい。 何度も言うが、それこそが「働いていても本が読める」社会だからだ。