平安期日本が未知の敵「刀伊」を撃退できた戦術・戦略的理由とは。『光る君へ』で竜星涼さん演じる隆家の発言に見る<来寇の脅威>と<紛争勃発の懸念>
◆律令軍団制の解体の中で そのさい留意されるのは一般の府兵の存在だ。諸史料からは大宰府側の「精兵」なり「郡住人」の特別な武力とは別に、動員の対象となり得る兵力である。 それゆえに刀伊来襲時には「府兵、忽然トシテ集マラズ(大宰府の兵士はにわかに集まらなかった)」という状況もあった。その意味では、府兵の多くは農民だとしても、かつての律令軍団制下のそれとはおのずと異なる存在といえそうだ。 9世紀半ば以降の大きな課題は、東国での蝦夷(えみし)・俘囚(ふしゅう)問題と西国との新羅海賊問題に対応する軍事力確保だった。 律令軍団制の解体の中で、俘囚の武力を有効活用する方針が採られた。俘囚の鎮西・山陰方面への移住が促進された。俘囚の卓越した武力を利用するために、一般農民から俘囚稲を供出させ、軍団・徴兵制の肩代わりとさせる流れである。 先に語った警固所についていえば、貞観11年(869)年5月、新羅海賊により豊前国貢調船襲撃がなされた。これにより大宰府鴻臚館(外交および海外交易のための施設)に「夷俘」(俘囚)を移し、警固に当たらせている。 これ以外に俘囚の西国移送が9世紀後半以降目立っており、その武力への期待が大きかった。 現実には西国移送の俘囚たちが政府や大宰府の意図通りに動いたわけではない。が、その末裔たちが、北九州方面に移転・定着して府兵の一部を構成したことは否定できない。 刀伊戦での主軸の武力ではなかったが、大宰府の戦力としてこの俘囚およびその末裔たちがも律令軍団の欠を補う形で機能したのではなかったか。
◆紛争勃発への懸念 王朝貴族たちの異国・異域観が刀伊との戦いで鮮明化された点も興味深い。 刀伊戦にあって藤原隆家が率先して指揮に当たったことは諸史料からもわかる。その隆家の発言には国境認識が反映されていた。 『小右記』(寛仁三年四月二十五日条)の末尾に、追撃については「対島・壱岐に至るところまでとして、日本の領域に限り襲撃するように、新羅との境に入ってはならない」と隆家が戒めている点だ。 当時はもはや新羅ではなく高麗が正しいが、王朝貴族にとってその異域観では「唐」であり「新羅」の記憶が深い。とりわけ、対新羅との関係は常に緊張を強いられてきた。9世紀半ば以降の海防意識は対新羅に関する限り、常に来寇の脅威とともにあった。 それゆえに大宰府の精兵が兵船で刀伊軍を追撃した場合、生じる懸念は高麗海域への越境による紛争の勃発だった。
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