「少々残酷だとは思ったが」一般メディアがプロレスを相手にしなくなった原点「力道山vs.木村政彦」戦で食い違った両者の言い分
プロレス界の王者と柔道の指導者
力道山は大正13年(一九二四年)、現在の北朝鮮で朝鮮人の子として生まれたとされる。日本名は百田光浩という。戦前に来日して大相撲で活躍。関脇まで昇進したが、親方と衝突したことを理由に突然、引退。プロレスに転向し、修行のため渡米した。昭和28年には日本プロレス協会を発足し、日本のプロレスの始祖として君臨することになった。 一方の木村は、大正6年に熊本県で生まれ、小学生から柔道に打ち込んだ。全日本選手権3連覇など、数々の栄冠を手にし、「木村の前に木村なく、木村のあとに木村なし」とまで称えられた最強の柔道家だった。昭和25年にプロ柔道家となり、間もなくプロレスに転向。ブラジルや米国で転戦しつつ、同26年に国際プロレス協会を旗揚げした。 2人は、「決戦」の前、タッグを組み、世界最強といわれた米国のシャープ兄弟に善戦したこともあった。特に力道山は、米国修行時代から、米国人を次々と打ちのめしてきたイメージを帯びており、戦争に負けてまだ10年と経ていない日本人にとって「国民的英雄」でもあったのである。 それでも、「両雄並び立たず」で、ライバル同士の決戦は必然だった。きっかけは、タッグ戦でいつも脇役に回されてきた木村がある日、朝日新聞記者に「実力なら力道山に負けない」と豪語したことだったといわれる。鼻っ柱の強い力道山が、これに激怒したわけだ。 決戦自体は、どこか後味の悪い結末となったのだが、勝敗だけははっきりした。力道山はプロレス界の王者としていよいよ君臨することになる。木村の方はやがてプロレスから静かに身を引き、出身校の拓殖大で柔道の指導者となった。
力道山39歳のあまりに唐突な死
ただ、2人のその後の人生を辿ると、「勝者」が必ずしも栄光に包まれ続けることはなかったことが分かる。 力道山は、木村戦の後、大阪を地盤とする実力者で元柔道家の山口利夫を破り、日本一の座を守った。世界戦にも積極的に挑戦し、ことごとく勝利を収めていった。大相撲の横綱だった東富士が、鳴り物入りでプロレス入りしたことがあったが、このときも、力士時代の番付でみれば格下の力道山の方が、人気、実力ともに圧倒的な優位を保った。 しかし、昭和30年代後半になると、ひところの勢いはなくなり、周囲に引退をほのめかすようにもなった。金遣いが荒く、酒を浴びるように飲む。些細な理由で弟子を殴りつける。傍若無人に振舞い、敵も多くなっていた。 そんな矢先の昭和38年12月8日、事件は起こった。力道山が赤坂のキャバレーで暴力団員といさかいを起こし、腹部を短刀で刺されたのだ。背景には、力道山のボディーガード役を望む暴力団同士の反目があったとも指摘された。 入院先で、最初は気丈な様子だった力道山だが、次第に容態が悪化、一週間後に息を引き取ってしまった。39歳のあまりに唐突な死。それは、柔道家に戻ったかつてのライバル木村が、母校の拓殖大を大学選手権優勝へ導くなど、堅実な道を歩み、75年の生涯を全うしたのとは対照的であった。