始皇帝の死後、「陳勝・呉広」はなぜ反旗を掲げた? 農民反乱の火種となった圧政
家系や血統は関係ない
呉広は日頃から面倒見がよかったので、兵卒の多くは彼のためによく働いた。引率の尉(い)が酒に酔ったのを見て、呉広はわざと逃亡を公言した。尉を怒らせて、自分を辱めるよう仕向け、そうすることでみなの怒りをかきたてようとしたのである。果たして、尉は呉広を鞭打った。そのとき、尉の剣が落ちたので、呉広は立ち上がり、それをひろって尉を斬り殺した。そこへ陳勝が加勢して、残りの二人の尉も斬り殺した。 かくして陳勝と呉広は兵卒を集めて、つぎのように言った。 「おまえたちは全員、雨のせいで期日に間に合わず、このままだと死刑だ。たとえ許されても、辺境の守備につく者は十人のうち六、七人は死ぬのが定め。そもそも一人前の男子たる者、死ぬと決まったならば、大いに名をあげるのみ。王侯将相(おうこうしょうしょう)いずくんぞ種あらんや」 すると一同は「謹んで命令に従います」と答えた。 そこで陳勝と呉広は公子の扶蘇と楚の将軍の項燕だと詐称した。これは人びとの意向に従ったまでだった。彼らは敵味方を区別するため、右肩を肌脱ぎし、大楚と称した。祭壇をつくって誓いをたて、尉の首を捧げた。陳勝はみずから将軍となり、呉広は都尉となった。 反乱軍は連戦連勝を収め、陳に近づいた頃には、戦車六、七百乗、騎兵一千余騎、兵卒数万にもなっていた。陳を占領すると、土地の長老や豪傑たちのすすめに従い、陳勝は王位につき、国号を張楚(ちようそ)とした。 その後も反乱軍は勝利を重ね、陳勝は秦の都を攻撃するべく、陳の賢者である周文(しゅうぶん)に将軍の印を与え、西方へ進撃させた。反乱軍に合流する勢力があとを絶たず、函谷関(かんこくかん)に達したときには、戦車一千乗、兵卒は数十万人になっていた。 一方、秦では驪山(りざん)の労役に駆り出されていた徒刑者や奴隷の子弟をその束縛から解放し、新たな軍を急造した。指揮官には少府(しょうふ)の章邯(しょうかん)が任じられた。章邯率いる秦軍は周文を完膚なきまでに打ち破った。章邯は勢いに乗じて、各地の反乱勢力をつぎつぎと撃破していった。 呉広は仲間割れで殺された。陳勝も王と称してから半年後に殺された。
島崎晋(歴史作家)