<私の恩人>板東英二、上岡さんに教えられた「アマチュアでいなさい」
個人事務所が申告漏れを指摘され、11月10日に会見を行った板東英二さん(73)。プロ野球選手からタレントに転身し、波乱万丈の芸能生活を送ってきましたが、人生の恩人に挙げたのは元タレント・上岡龍太郎さんの名前でした。 <私の恩人>新喜劇のマドンナ 大先輩が優しく諭してくれた
僕がプロ野球で現役だった頃、所属していた中日ドラゴンズが阪神と試合をする時の定宿は、大阪・梅田にあるラブホテルだったんです。というのも、当時は、冷房がついているホテルがあまりなくて、選手はそこから甲子園球場に向かっていたんです。 そのラブホテルがたまたま吉本興業の劇場・うめだ花月(2008年閉館)のすぐ近くやったんで、よく観に行ってました。当時、うめだ花月に出ていて、僕が大好きやったんが、横山ノックさん、横山フックさん、当時は横山パンチという名前だった上岡龍太郎さんが組んでいた「漫画トリオ」だったんです。 あくまでも、いちファンとして見ていた上岡さんと接点ができたのは、僕が引退してからでした。僕が野球をクビになったのが1969年、そして、ノックさんが参議院選挙に出馬するということで「漫画トリオ」が解散したのが1968年。ほぼ時を同じくして、2人とも“チーム”から出て1人になったんです。 そして、ご縁があったんでしょうね、名古屋のCBCラジオ「ばつぐんジョッキー」というラジオの帯番組で僕が月曜日を担当し、上岡さんが木曜日を担当するようになった。初めて会ったのは1974年の年末、その番組の忘年会でした。 僕は劇場で見ていた「漫画トリオ」のパンチさんやというのがありましたし、上岡さんはムチャクチャ野球好きですから、現役時代から僕に興味を持ってくれていた。そして、1人になりたてという境遇が共通していたこともあって、会ったその日に、一気に打ち解けたんです。 当時、僕は名古屋に、上岡さんは大阪に家がありました。その頃は互いにお金もなかったので、僕が大阪で仕事がある時には上岡さんの家に泊まって、上岡さんが名古屋で仕事がある時にはウチに泊まって、宿泊費を浮かして、現場に行ったりもしていました。 何より、上岡さんに教えられたのが「あんたはプロでは大成功とは言えないかもしれないけど、甲子園の準優勝ピッチャーとしてみんなが知ってくれている。あんたの代名詞とも言える高校野球に、なぜ人が熱中するのか。それは一生懸命さと大きな声があるから。技術ならプロの方がずっと上やのに、人を感動させるのはそこ。あんたはプロになったらアカン。一生懸命さと大きな声を持って、アマチュアでいなさい」ということでした。