なぜセレッソDF毎熊晟矢の「遅すぎる」オランダAZへの移籍が実現したのか?
「菅原の移籍を予想して、クラブがスカウティングを行ってきたなかで毎熊の名前が出てきた。彼は攻撃に対するアイデアが豊富で、ピッチ上でボールに快適な対応を見せる。守備の部分でも、菅原よりも少し成熟しているかもしれない」 今冬のアジアカップにも招集された毎熊は、攻守両面で精彩を欠いた菅原に代わり、インドネシア代表とのグループステージ最終戦、バーレーン代表とのラウンド16、そしてイラン代表との準々決勝で先発フル出場。右サイドバックで奮闘した姿に注目したAZがその後も継続的に毎熊の動向をチェックし、オファーへとつながった。 菅原の名前をあげながら、毎熊も攻撃力を自身のストロングポイントにあげる。 「お互い攻撃に特徴があると思いますけど、僕はまた違っていると思います。こちらでは僕みたいなタイプはなかなかいないと個人的には思っているので、僕にしか作り出せない部分というものを出していけたらと思っています」 大学まではフォワードを主戦場にしていた毎熊は、長崎で右サイドバックに転向した。青天の霹靂にも感じたコンバートに戸惑った毎熊は、吉田孝行コーチ(47、現ヴィッセル神戸監督)に「もうフォワードには戻れないのでしょうか」と悩みを打ち明けた。返ってきた言葉が、その後の毎熊を支えてきた。 「お前なら絶対にできる。このポジションなら日本代表までいける」 迷いが吹っ切れた毎熊は、右タッチライン際を上下動する右サイドバック本来の動きに加えて、マイボール時には状況に応じて内側のレーンにも進出。中盤の選手たちとともにビルドアップに加わり、ゴールにもかかわるスタイルを身につけた。 攻撃的なポジションで培った経験を、サイドバックにも反映させていく考え方を、戦いの舞台がオランダに変わっても貫いていく。もちろんポジショニングや対人での強さを含めて、守備をおろそかにするつもりもない。毎熊が決意を新たにする。 「どこまで自由にやっていいかはまだわからないんですけど、中に入っていくとか、外でのプレーを使い分けながら、他とは違ったアクセントをつけられたらと思っています」 視線の先には2年後にアメリカ、カナダ、メキシコで共同開催されるW杯がある。両親に連れられ、4歳だった夏に故郷の大分スポーツ公園総合競技場で観戦した2002年の日韓共催大会は、カードも含めてさすがに覚えていない。それでもプロサッカー選手になってからテレビ越しに見た、カタール大会の記憶は鮮明に残っている。 「アジアカップを経験して、もっと規模が大きいワールドカップの相手選手の殺気や会場の熱気はさらにすごいんだろうなと思いましたし、そういったものを感じながらプレーしたい、という思いを抱いていますけど、まずは自分を獲得してくれたこのクラブのために結果を残したい。言葉の部分で英語もできないので、みんなが僕にもわかるような簡単な英語で話しかけて助けてくれている。でも、オランダ語だとちんぷんかんぷんな状況なので、少しずつ覚えていければ、とも思っています」 エールディヴィジだけでなく、AZが出場権を獲得しているUEFAヨーロッパリーグも待つ未知の戦いへ。その過程でアジアカップ以来、遠ざかっている森保ジャパンへの復帰も見すえながら、毎熊が新たな挑戦をスタートさせた。 (文責・藤江直人/スポーツライター)