78歳現役アクション俳優、倉田保昭『帰ってきたドラゴン』が50年ぶりに上演。CGもワイヤーもない時代、120本近く海外映画に出たなかで、これが一番きつかった
◆「香港映画のオーディションがあるんだけど、受けてみないか?」 香港映画界との縁ができたのは1970年。大学を出て2年が過ぎ、日本のドラマや映画でちょい役をやっていた時期でした。演技の研修所に籍を置いてはいましたがサボってばかりでしたし、役者の仕事も食べていくにはほど遠い。もうやめようかなと思っていた時に「香港映画のオーディションがあるんだけど、受けてみないか?」と言われたのです。 もともと僕には、卒業後は海外で仕事をしたいという夢がありました。役者じゃなく裏方でも、正直、日本を出られれば何でも良かったのです。なので声をかけてもらったのは本当に幸運でした。 オーディションの場所は帝国ホテルのティールーム。そこにショウ・ブラザーズという香港の大手映画会社の社長が来ていました。オーディションと言っても挨拶をして、「そこに立って。はい、どうも。じゃあ監督と相談して連絡します」くらいのものです。 一瞬で終わったので「これはダメだろうな」と思っていた2ヵ月後、「選ばれたみたいだよ。撮影は2週間で終わるらしいから行ってみれば?」と言われて。あれよあれよと言う間に、香港に飛ぶことになったのです。 現地では、まず1日でラッシュを撮影。それを見て評価してくれたのか、その場で年間契約が決まりました。 とはいえ僕としては2週間の予定で来ていたため、何の準備もしていません。そこで「生活費として月々**円くらいもらえますか?」と尋ねたところ、「それはうちのトップスターのギャラだよ」と断られて。がっかりしていたら、監督が「俺がもう1本出資している会社があるから、昼間はショウ・ブラザーズの作品に出て、夜はそっちに出なよ」と勧めてくれたのです。 そこからはもう「この監督にすべてを任そう!」と決め、昼夜寝る間もないアクション三昧の日々に突入していきました。
◆食べ物が美味しく、すべてが大らかだった香港 香港は僕が初めて行った海外になりますが、今までろくに食べていなかったせいか、もう何を食べても美味しくて。鶏の足を煮たものだけは見た目を含めて苦手でしたが、他は全部口に合いました。皆さんからよく「ご苦労なさったでしょう?」と言われますが、ちっとも苦労なんかしていないんですよ。(笑) 住居はホテルではなく、撮影所の中にある宿舎。ひとつの村のような大きな施設で、俳優もプロデューサーも皆そこに滞在しているのです。僕も草履履きで、そこからスタジオに通っていました。食事も出るため、お金を使う必要がないのがありがたかったです。 現場は皆すごくフレンドリーで、アクションも好きなようにやれるし、フィルムなんかいくら使ってもいいよという感じで、10回、20回とNGを出しても怒られない。仕事の時は通訳がつくので、コミュニケーションの問題もなし。大らかで、伸び伸びと仕事ができる環境でした。 昼も夜もスケジュールが埋まっていて肉体的には多忙だったものの、のんびりした自由な雰囲気に、毎日「ここは天国だな」と思いながら撮影をしていました。 撮影所は郊外にあって、がけ下は海。夜に撮影が終わって空を見上げると、大きな月が出ているんです。時には月あかりの下、「この海を泳いでいけば日本に帰れるのか……」と郷愁にかられたことも。街の電気店から千昌夫さんの『星影のワルツ』が聴こえてきた時はグッときましたね。
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