ソ連共産党はいかにして中国という共産主義国家を作ったのか?ソビエトロシアの世界戦略と毛沢東のキャリア形成
■ ロシア共産党が糸を引いていた暴動 興梠:ロシア共産党(1952年にソ連共産党に改名)の極東局ウラジオストック分局から中国に送り込まれてきたのが、ヴォイチンスキーでした。彼は、通信社設立の名目で中国に入り込みました。そして北京大学に行き、早稲田大学で学んだ李大釗に接触したのです。 李大釗は日本留学時代、京都帝国大学の経済学者・河上肇(かわかみ・はじめ)の影響を受け、マルクス主義に傾倒し、中国でその思想を広めました。 毛沢東は、湖南第一師範の恩師・楊昌済が北京大学に栄転になったので、そのつてで、北京大学の図書館でアルバイトをしていました。その時に北京大学の図書館長だったのが李大釗です。こうして、毛沢東と李大釗の間に接点ができます。 毛沢東は北京大学の学生ではありませんでしたが、聴講を許可され、様々な研究会にも参加するようになりました。そこで学んだ新聞発行のテクニッは、湖南に戻って新聞を発行する時に役立ちました。 李大釗と接触することに成功したヴォイチンスキーは、学生たちにロシア革命の話をしました。皆が欧米に失望し、ソビエトロシアに親しみを覚え始めたタイミングです。ヴォイチンスキーは、ロシア語を読めない中国人が多いことを想定し、わざわざ英語やドイツ語で書かれた共産主義やロシア革命に関する文献を持参していました。 李大釗はヴォイチンスキーに陳独秀を紹介しました。陳独秀は当時、北京大学を去り、自分が刊行していた「新青年」という雑誌も上手くいかなくなり、行き詰っていました。 以前は論壇のスターだったのに、投獄されるなどして悶々としており、上海に逃れていた。ちょうど欧米に失望し、ロシアに憧れを抱き始めた時に、ヴォイチンスキーがすっと接近してきたのです。その後、「新青年」もソビエトロシアの資金が提供され、共産党機関誌として発行されるようになりました。 ──誰にアプローチすべきか、ソ連はよく調べていたのですね。 興梠:ロシア共産党に入党した華僑が、誰が狙い目かを教えていました。北京大学の李大釗の同僚のロシア語の教師だったセルゲイ・ポレヴォイも、共産党の連絡員だったと言われています。 しかし、そんなことは誰も知りません。李大釗だってヴォイチンスキーが共産党から送り込まれてきたとは知らず、新聞記者と思っていたらしい。まさに地下工作です。そうやってターゲットを取り込み、世論を作り、すっと入っていくんですね。 ──中国共産党は、コミンテルン(共産主義インターナショナル。1919年、レーニンらの指導の下、ロシア共産党が中心となって設立した国際共産主義を推進するための組織)から多大な支援を得ています。コミンテルンはどれくらい深く中国共産党に関わっていたのでしょうか? 興梠:中国共産党は当時、「コミンテルン中国支部」であり、モスクワの指示は絶対で、服従しなければなりませんでした。ロシア共産党は活動資金を拠出しただけでなく、人も派遣し、指揮しました。公開された旧ソ連の史料を見れば、コミンテルンがいろいろと細かい指示を出していたことがわかります。 ソビエトロシアの目的は、中国に親ソ政権を樹立し、衛星国にすることでした。暴動やストライキから革命を起こそうとしますが、こうした活動は、コミンテルンが裏で指揮していました。 中国では、ソビエトロシアが指揮した暴動は「起義」と呼ばれていますが、実際は、ロシア革命の手法を踏襲し、政権を奪取するために起こした「暴動」でした。モスクワが後ろで組織していたのです。