ソ連共産党はいかにして中国という共産主義国家を作ったのか?ソビエトロシアの世界戦略と毛沢東のキャリア形成
■ 中国の世論が欧米や日本からロシアに傾いた理由 ──毛沢東は最初、アメリカや欧州、そして日本から影響を受けていますが、次第にロシアからの影響を強めていきます。なぜ最終的にロシアだったのでしょうか? 興梠:第一次大戦の後に開かれた「パリ講和会議」が原因です。中国は戦勝国であったにもかかわらず、敗戦国のドイツが山東省に有していた権益が日本に譲渡されることになりました。 この時に、欧米に期待していた人々は裏切られたと感じ、欧米に批判的になりました。憧れの対象だった西欧が日本に妥協したことで、陳独秀や毛沢東は欧米を違った目で見るようになったのです。 そこにすかさず、ソビエトロシア(1922年からソ連)が「私たちは、過去に奪った利権を無償でお返しします」とアプローチします。これが「カラハン宣言」です。結局、返還は実現しなかったのですが、この宣言で中国の世論は一挙に親ソに傾きました。 そして、カラハン宣言と同じタイミングで、ソビエトロシアが中国共産党の設立を画策します。まず、世論を親ソにして、そこから共産主義を広めていくのです。このように、中国共産党の形成過程におけるソビエトロシアや日本の影響はたいへん大きなものがあります。 ──若き思想家だった毛沢東に、革命運動を起こすようアドバイスした最初の人物に、蔡和森(さい・わしん)というフランスに留学していた毛沢東の友人がいます。毛沢東にとって、蔡和森はどのような存在だったと思われますか? 興梠:蔡和森は、毛沢東が師範学校で学んでいた時の友人です。「新民学会」という学生団体を立ち上げた仲間でもありました。蔡和森は働きながら学ぶプログラムで、フランスに留学しました。 蔡和森は、フランスで共産主義のパンフレットを読みまくっていましたが、その頃の毛沢東は中国で湖南自治運動など共産主義とは関係のないことをやっていました。まだ、平和的なデモで軍閥を説得して政治を変えられると思っていた頃です。 しかし、毛沢東は湖南自治運動が失敗して絶望します。「平和的な民主化運動はダメだ」「結局は力なのだ」「血が流れても革命しかないのだ」と考えた毛沢東は、フランスで共産主義運動に触れていた蔡和森と共鳴していくのです。文通を通して二人は意見を交換していました。 「(革命活動は)秘密にすべきだ」など、蔡和森は毛沢東に様々なアドバイスをしています。蔡和森はフランスで、共産主義の文献などを読んでいたからです。 ちょうどその頃、陳独秀がグリゴリー・ヴォイチンスキーというソビエトロシアの使者と会って、共産党設立の準備をしていました。こうした流れがつながっていくのです。 ──中国に共産主義が導入されていく過程で、ヴォイチンスキーという人物が活躍した経緯が本書に書かれています。