ソ連共産党はいかにして中国という共産主義国家を作ったのか?ソビエトロシアの世界戦略と毛沢東のキャリア形成
■ 若き毛沢東が日本に抱いていたイメージ 興梠:塾では経書を読まされていましたが、農作業の合間に隠れていろんな本を読んでいました。最初は中国の古典や雑書を読んでいましたが、後に国際情勢に関する本を借りて読み、外の世界に目を開かれます。そういう本を通して、世界における中国の置かれた状況を理解し始め、農村から出て都会の学校で学びたいという気持ちが強まります。 やがて都会の長沙に出た後は、革命思想に触れただけでなく、図書館に通って西欧思想の訳本を読み始めます。アダム・スミス、モンテスキュー、ジョン・スチュアート・ミルなどの著作を読むようになります。 ──けっこう自由にいろいろ読める環境だったのですね。 興梠:中国は当時、時代が大きく変わる激動の中にありました。辛亥革命によって、清朝が倒れて中華民国が樹立される頃です。各地で軍閥が台頭し、中国が分裂した状態で、一つの時代が終わり、次の時代が始まるタイミングです。今の中国と異なり、当時は統制がきかず、禁書になるような本もいろんなルートで出回っていました。 また、当時の中国では、欧米の思想や技術を取り入れ、短期間で強国化した日本に学ぼうとする意識が強く、欧米の書籍が翻訳され、出版されていました。欧米の先進的な知識がないと世界で伍していけないという感覚がありました。 日本留学も流行っており、彼の恩師・楊昌済(よう・しょうさい)だけでなく、中国共産党の創設メンバーである陳独秀や李大釗(り・たいしょう)などは、みな日本留学帰りです。 ──毛沢東自身は海外の書籍から多くを学んでいたのに、自分が指導者になると、そういったものを国民が手に取る機会を封じていきますよね。 興梠:そうです。これは、この本のテーマでもありますが、若い頃の毛沢東は欧米の民主主義が良いと考えていた。「中国は大きすぎるから連邦制にして、国を分割するべきだ」という思想さえ持っていました。 「湖南省を湖南共和国にしたほうがいい」と主張していましたが、これは、当時の時代の風潮で、毛沢東が憧れていた日本留学帰りの陳独秀らも「連邦制」を提唱していたので、その影響は大きかった。 ──毛沢東が日本を「勁敵(けいてき)」と考えていたと書かれています。毛沢東は日本に対して、どのような印象を持っていたのでしょうか? 興梠:毛沢東は当時、単純に日本が嫌いだったというわけではありませんでした。袁世凱(えん・せいがい)政権の時代に、日本は中国に対して「対華21カ条」(※)を突きつけ、中国で反日ブームが巻き起こった。 その結果、毛沢東は「日本は勁敵だ」と主張しますが、同時に日本に留学したいと思っていました。「敵と戦うには、敵のことを知らなければならない」という意識があったと思います。日本はなぜあんなに強くなったのか知りたいと考えたのです。 ※対華21カ条:1915年、第一次世界大戦中を機にドイツに宣戦布告し、山東省を占領した日本が同省のドイツ権益の譲渡や南満州などの利権確保を図り、袁世凱政権に突きつけた要求 これは、陳独秀や李大釗など当時の中国の知識人たちの共通の感覚だったと思います。「なぜあんな小さな国が、日清戦争で大国の清を打ち負かしたのか」「強国ロシアに勝ったのか」という問題意識があった。日本は、短期間に欧米の知識を吸収し、富国強兵を成し遂げたので「明治維新」が一つのキーワードになっていたのです。 毛沢東のいた師範学校のある、湖南省の長沙市(ちょうさし)は大都市ですが、そこは一時期「小日本」と言われるほど、日本の影響が色濃く見られました。毛沢東も「日本に行きたい」と思っていました。日本への留学生も湖南省の出身者が多く、彼の恩師の楊昌済もその一人でした。