竪穴住居の屋根に使われた? 古代から琵琶湖周辺で重宝される「ヨシ」とは
また、琵琶湖岸の弥生時代の遺跡からは、ヨシ簀(ず)を用いた川で魚を捕る仕掛け、簗(やな)が見つかっている。 琵琶湖の漁具の代表である魞(えり)は、近世以降に仕掛けが巨大化して竹簀が素材とされ、現在はさらに網を用いるようになったが、これもかつては内湖にヨシ簀を使って設置した小型のものだった。魚の入りがよかったといい、明治時代までヨシを素材に使った魞があったという。 ヨシ簀は、風通しのよい日除け、簾(すだれ)として重宝されてきたものでもある。家屋の外からの人目を避けながら、内側からは外を見通せるのも利点であった。 京町家の夏の設えとして襖(ふすま)と交換するヨシ戸やヨシの衝立(ついたて)などは、日本家屋の美の一つといえよう。商店の軒先に立てかけられた立て簀も、夏日の懐かしい風景である。そのほかにも、ヨシ簀は茶農家が使う覆いとして大量の需要があった。
サステナブルな素材としての可能性を模索
ほかにもヨシを使った製品としては、毛筆の軸や筆先の鞘(さや)、よしぶえ、雅楽で使われる管楽器「篳篥(ひちりき)」のリード部分にあたる「舌(ぜつ)」などが知られる。 さらに、ヨシの根などを乾燥させたものは生薬とされ、ヨシの新芽は食用にすることもできた。屋根を葺き替えて取り除いた古いヨシは最上の肥料になったといい、ヨシは土に返るまで利用できる素材であった。 しかし、戦後、国内でのヨシの需要は激減する。大口の納品先であった茅葺き屋根の家屋は希少となり、ヨシ簀などもプラスチック素材ほかの別製品に置き換わり、さらに中国からの安い製品が台頭した。高級な家具や建具の素材として注目されても、そのニーズは失われた量に比べてあまりに小さい。 江州ヨシの産地として知られた湖東の内湖のヨシ地は、近世から個人の所有地、いわばヨシ畑として管理されてきた。現在の西の湖でもそれは引き継がれている。それだけにヨシの需要の減少は、ヨシ地の運用そのものに影響を与えている。ヨシ刈りの人件費が確保できず、人員を集められないこともその一つである。 ヨシ地は毎年3月中に、刈り取った地に火を放つヨシ焼きを行う。それによって4月から新芽が出て、青々としたヨシ地へと成長する。 その一年のサイクルを維持するためには、ヨシ焼きまでの刈り取りを欠くことはできない。近年、西の湖のヨシ地では、イベントを企画するなどしてボランティアを集めてヨシ刈りに対応するようになっている。 そのヨシ刈りに以前より参加してきたのが、近江八幡で江州ヨシの製品を扱うショップ「アトリエ伸」を営業する千賀伸一さんである。 「私は京都出身ですが、近江八幡に移って地域おこしのイベントに関わってきました。この店もそんな活動の延長です」という千賀さんだが、店を設けるまでになったことには、ヨシの研究者だった西川嘉廣氏との出会いの影響が大きかったという。 西川氏は、近江八幡の水郷地域に江戸時代から屋敷を置くヨシの卸商「西川嘉右衛門商店」に生まれるが、東京大学医学部、同大学院を経て、薬学博士として国内外の大学で基礎医学と薬学分野での研究、教育にあたった。 定年を迎えた平成12年(2000)、実家に戻って家業を継ぎ、17代当主となり、翌年には実家内に「ヨシ博物館」を開設。著書『ヨシの文化史─水辺から見た近江の暮らし─』もまとめられた。しかし、平成24年(2012)に亡くなられ、ヨシ博物館の資料は滋賀県立琵琶湖博物館に寄贈されている。 千賀さんは、一本のヨシの先を繊維状にした「よし筆」を独自に開発して、お店でも販売している。この筆は西川氏と懇意にするなかで生まれたという。 「ヨシは油分が強く、繊維状にするだけでは、墨汁も絵具もはじいてしまいます。西川先生に相談すると、ヨシを燃やしたのちの灰は『油落とし灰』として、かつて販売されていたことを教えてくれたのです」。 実際にヨシの灰を入れた沸騰水に筆先を入れることで、脱脂されて筆として使えるようになったという。「使用する灰は筆作りで出た端材を燃やしたもの。ヨシは本当に捨てる部分がないのですよ」。 思いがけないかすれがでるのが、むしろ魅力という「よし筆」だが、製品として購入するより、自身で作ってほしいと千賀さんは語る。
ヨシについて知り、琵琶湖の環境について考えてもらうきっかけとして一番いいのは、ヨシ刈りなどに参加してヨシに触れ、それで何かを作ってもらうことだと続ける。確かにヨシには、はるかな人の営みを思わせる手触りがあった。それは、ただ消費するだけではない、創造という暮らしのあり方を思い起こさせる。
兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)