内田也哉子さん アカデミー賞受賞しても女優の道へ進まなかった理由
娘・伽羅さんの人の気持ちに寄り添える優しさは、樹木希林さんの思いが継承されている
上田市・サントミューゼで「海よ哭け」コンサートのフィナーレを終えた也哉子さんは、鳴りやまない拍手のなか、ホッと胸をなで下ろすように楽屋に戻ってきた。 「母が言っていたように、何かが来たら面白がろう、そこに乗っていこうと心掛けてきました。半年悩んだけれど、こうした出会いに感謝しています」 その母が生活者として、比類ないロックン・ローラーの妻として両面を生きたように、也哉子さんも物事をつねに両極で捉え、それを必要な「両輪」だと解釈する。 「母が生きていくために父の存在は不可欠でした。物事は表に出る部分があれば、水面下に必ず何かがあり、それは窪島さんの無言館に対する葛藤もしかり。そんなアンビバレントな(相反する)状況こそ真理だと思う」 ときに、両親を相次いで亡くした也哉子さんは「どっぷり親との関係と向き合う」日々を得て、何を思うのだろうか。 そもそも、彼女は早くして母になり、文筆の世界に身を投じた。偉大な役者だった母と同じ道は、たどらなかったことになるが……。 そう問うと、やや目線を落とし、思い巡らすように答えた。 「たぶん、幼いころから背中を見てきた親って、偉大です。逆に親にとっては、どんなに年を取っても子どもは子ども。私も、親に追いつくことはないんじゃないかと思うし、同じ道をたどる必要もないと思ったんです」 ただ、也哉子さん自身はかつて映画『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(2007年)に出演し、日本アカデミー賞・新人俳優賞を受賞した実績もあるのだ。 「あの作品は、母の若いころを演じられる人が誰もいないということで『演技しなくていいから』と松岡錠司監督に言われて出演した記念碑的な位置付けでした。お芝居は、母があまりに天職でしたし、同じ土俵に立ちたくないと、私は引いていたんです」 なるほど、自身は20歳前後から執筆を始め、2004年には絵本『BROOCH』(リトルモア)で文章を手掛け、高評価も得ているのだ。 「じつは」と、執筆を始めたころ父・裕也さんから言われたことを教えてくれた。 「父は『俺たちみたいな芸能界に来なくてよかった。也哉子ならではの表現が見つかってよかったな』と言ってくれました」 二世として比較されなくてすむという「親心」を感じると同時に「間接的に認めてくれたのかな」とも思えたそうだ。 「父が暗に『お前の道を歩いていけばいい』と、教えてくれているようで、励みになりました」 いま、3人の子は成長し、順に親の手を離れていこうとしている。 長女の伽羅さんには、希林さんの気質が「隔世遺伝している」と感じることがある。 「伽羅は幼いころ無口でしたが、それを見た母が『私もそうだった』と言いました。『でも、伽羅は周りをよく見ているよ』とも。母と同居できたのは、孫である伽羅の大きな経験ですし、人の気持ちに寄り添える優しさは、母の思いが継承されていると思う」 うなずくように、目を細めた。 有形、無形に受け継がれるべきものがある。 人生の「折り返し地点」に立つ内田也哉子さんは、次代につなぐ役割を担おうと決めた。 (取材・文:鈴木利宗)
「女性自身」2025年1月7日・1月14日合併号