【デーブ大久保コラム】昔から各チームにすごい左腕がいました。ただ私は山本昌さんと、相性がよかったです
【デーブ大久保 さあ、話しましょう!】 西武での現役時代、打者はとにかく速い球を打つ練習をしていました。そのために、即戦力ルーキーの速球投手を、ファームの試合で打ち崩すことは楽しみでもありました。今でも覚えているのは、大洋に1991年ドラフト1位で入団した水尾嘉孝。鳴り物入り剛速球投手で、実際に速かったですよ。1年目の7月にファームで対戦したことがありましたが、このとき水尾から西武は3本の本塁打を打って6対1で勝っています。その中の1本が私のソロ本塁打です。左投手に強いというよりも、当時は速い投手に強いファームの西武打線というイメージが強かったですね。 【選手データ】山本昌 プロフィール・通算成績 西武時代はチームメートで、工藤公康さんというすごい左腕はいましたが、ほかの球団ですぐには名前が出てこないですね。巨人に移籍したあと、一軍の試合に出させてもらったので、セ・リーグのほうが左の好投手の印象が多く残っています。 横浜だと野村弘樹、阪神は同級生の湯舟敏郎、広島は川口和久さんに大野豊さん。中日は今中慎二とエース級の投手がいました。その中でヤクルトの石井一久は、真っすぐが速かったですね。しかし、私は内角の真っすぐに強い打者でしたので、苦にはならなかったんです……石井の若いころは、です。しかし、彼がスライダーを習得してから、真っすぐなのか、スライダーなのか腕の振りがほぼ一緒だったので見分けられず、打てなくなりました。 そしてもう一人、中日の大エース、山本昌さんもすごい投手でした。でも、昌さんはカモにしていました。ただ最初のほうは、伝家の宝刀、スクリューボールを右へ引きつけて打つことを心がけていましたが、かなか打てなかったんです。移籍した1992年で最初の4試合までは8打数1安打に抑えられていました。 その状況を見た当時のスコアラーの三井康浩さんから「右に引きつけて打とうとしているだろ? 山本昌はその対策だと打てないんだ。左中間を狙うようにして打つといいんだよ。引っかけてもいいから」というアドバイスを受けたんです。 その言葉を信じ打席に立ったら本当にヒットが出るようになり、この年のその後の3試合の対戦で7打数4安打と結果を残せたんです。左中間へ引っ張り込む意識が強くなることで、自然と外角低めのスクリューボールを見逃すようになりました。翌93年の対戦成績は4打数1安打ですが、その1安打が本塁打でしたし、94年は5試合の対戦があり9打数4安打の打率.444と非常に相性がいい投手になっていました。 引退後に昌さんと対戦の話をしたときに「デーブは途中から引っ張りの打撃をするようになったよな。あれをやられると投げる球がなくなるんだよ。だから投げにくかった」と言われたんです。昌さんには三井スコアラーとのやり取りを説明させてもらう一方で、昌さんはその対策を感じながら投げていたことが分かり、本当にすごい投手だったんだと実感したのを覚えていますね。
週刊ベースボール
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