奥田瑛二「45歳か50歳で国会議員になる」上京に反対する父親を説得した大芝居
歳を増すごとに人間としての深みが濃くなっていく感のある俳優・映画監督 奥田瑛二。1980年代のトレンディドラマの代名詞ともいえる『男女7人夏物語』をはじめ、『海と毒薬』、『千利休 本覺坊遺文』、『式部物語』などの海外での評価の高い作品にも出演。93年に公開された映画『棒の哀しみ』で国内で多くの賞を受賞し、その印象が強いこともあってか、アウトロー的なイメージが強い。一方では映画『少女 an adolescent』、『るにん』などで監督を務めるなど多岐に渡り活躍続ける奥田にとっての「THE CHANGE」とは──?【第3回/全4回】 【画像】「45歳か50歳で国会議員になる」と上京に反対する父親を説得した奥田瑛二、砂時計を見つめ上京当時を振り返る 愛知県を故郷に持つ奥田さんが映画俳優を夢見たのは小学5年生の頃だった。ダンディなスーツ姿でその当時の具体的な感情込めつつも、熱く語ってくれた。 「僕は長男で年子の姉がいて、4つ違いの弟がいるんです。父は氷屋と牛乳店を営んでいて母が喫茶店を手伝ったりしていました。弟は絵描き志望で、僕は『丹下左膳』の大友柳太朗の芝居を観て映画俳優になりたいと思っていたんです。それで、映画俳優には何が必要かと思ったら、それなりの身長と体の丈夫さじゃないかと思ったんですね」 そう考えた奥田少年は中学時代には野球をやり、高校生時代にはラグビーをやり、その他にも体の鍛錬をやり続けていた。 「高校三年生の時に東京へ行きたいと親父に言ったんです。そしたら“たわけーっ!”って一喝されまして。“何とろくさいこと考えとるんだ!お前は名古屋の大学行きゃええんだわ”って言われたんですよ」
どうしても東京へ行きたい!
そう言われた奥田少年は反論できず、「そうだよな~。やっぱり、俺、長男だしな~」と思うしかなかった。それでも奥田少年は諦めることが出来ず、色々と策を弄した。そして一週間ぐらい経って、再度父親と向かい合った。 「これからは中央に出なければいけない。なぜならば、僕は25歳で市会議員に、35歳で県会議員に、そして45歳か50歳で国会議員になる。そのためには東京の大学に行って見聞を広めなければいけない。だから、頼むから東京の大学に行かせて下さいっ!」 大声で演説口調で朗々と父親にそう進言した。 「もちろん、それは大嘘でね(笑)。ただ、俳優になりたいから行きたかっただけでね」 父親も奥田少年の、その熱意に打たれた……ということではなかった。 「向こう(父親)も素直に認めるのではなく、変化球を返してきてね」 上京の直前にひとつの条件を出してきた。 「先生(代議士)のところに相談したらうちに来りゃいいぞって言って下さったから、そこへ行って、先生の手伝いをしろって。“それって、その代議士先生の家に寝泊まりするってこと? ”って聞いたんです。そしたら親父は、そうでなかったら東京へは行かさんって言ってきて。それで、僕も渋々受け入れて、上京して先生の家に住むようになったんです」