スポーツプラスα 心に誓う、野球への恩返し センバツ出場の山口・光、外部コーチ・田上昌徳さん /福岡
◇「KKコンビ」に敗れた甲子園出場左腕、その経験が出発点 的確なアドバイスで選手を支える 田上昌徳さん(55) 1985年、清原和博さん、桑田真澄さんが率いる最強のPL学園(大阪)に憧れ、敗れた投手がいた。県立の宇部商(山口)のエース・田上昌徳さん(55)だ。今、心に刻むのは「野球への恩返し」。田上さんは第95回記念選抜高校野球大会に初出場する同じ県立の光(山口)の指導者として、甲子園に舞い戻る。 ◇「清原は威圧感があった。化け物です」 3月5日、光は練習試合で2022年夏の甲子園準優勝・下関国際(山口)と対戦した。先発は昨秋の公式戦で9試合中8試合を完投した大黒柱の升田早人投手(3年)。2失点した一回を投げ終え、升田投手がベンチに戻ると、外部コーチの田上さんが、すかさず近づいてアドバイスした。 升田投手は二回以降、伸びのある直球がさえ、得点を奪われることはなかった。「真っすぐの走りが良くなくて変化球に頼ったが、田上さんの助言をもらって(二回以降は)真っすぐ中心にした」という。田上さんは「練習試合では、気づいたらすぐにアドバイスするようにしています」と涼しい顔で語った。 田上さんは現役時代、身長170センチと上背はなかったが、打者の膝元に食い込む直球とカーブのみで三振を奪う好左腕だった。高校時代は同学年の清原さん、桑田さんの「KKコンビ」が1年夏から5季連続で甲子園出場を果たし、優勝2回、準優勝2回、ベスト4が1回と黄金時代を迎えていた。 田上さんとPL学園の最初の対戦は、3年春の85年センバツ2回戦だった。「PL学園に入りたかったので、対戦できると分かった時は、やっとここまでたどり着いたのかと思った」 夢は実現したが、「1~9番の打者は息つく暇がなかった。終盤は精神的にヘロヘロになった」。体力に自信はあったが、回を追うごとに気力がすり減った。「4番の清原は威圧感があった。化け物です」。清原さん、桑田さんの2人に適時打を許すことなく接戦に持ち込んだが、八、九回に計3点を奪われて2―6で敗れた。 2度目の対戦は85年夏の甲子園の決勝。最高の舞台だったが、田上さんがマウンドに上がることはなかった。準々決勝、準決勝で序盤に失点して途中降板したこともあり、決勝は左翼手で出場。九回サヨナラ負けを喫し、「本来レフトを守る選手は決勝の舞台に立てなかった。申し訳ない気持ちもあったので、本当は出たくなかった」。今でもチームメートの気持ちを思いやる。 ◇「投手は球速じゃない」 プロを目指して、高校卒業後は社会人の新日鉄光(現・日鉄ステンレス)に入社した。しかし、大きな壁にぶつかった。「社会人は結果主義。初めはグラウンド整備とスパイク磨きしかしていなかった」。結果を残せず、与えられたのは裏方業務。都市対抗野球大会の予選などで試合の映像を撮影するビデオ係が主な役目だった。練習中での粉砕骨折など2度の左肘のけがに悩み、手術も経験した。 現役を退き、15年から光高で指導を始めた。社会人時代の関係者が外部コーチをやっており、田上さんも宮秋孝史監督(59)らから誘われたという。 外部コーチとして教える際、現役時代の苦難が出発点となった。「僕が苦しい野球をしてきた。けがのリスクはゼロにはならないが、選手の将来を考えると、けがをさせないのが第一だと考える」と力を込める。 投手指導の根幹に掲げるのが投球フォームを固めることだ。速い直球を投げようとすると、体に力みが生じ、インステップになる傾向があるため、真っすぐに足を踏み出すことを教える。投球後、軸足がどの位置にあれば正解かという細かい指導もする。 時代は違うが、田上さんは直球とカーブのみで打者と戦ってきた。「投手は球速じゃない。ボールにキレがあれば130キロでも抑えられるし、結果が全てではない。大学、社会人でもチャンスはある」と力説する。 長く野球を続けてほしいとの思いから選手をせかすこともしない。一つずつ段階をクリアすると次の過程に進むように指導する。升田投手はセットポジションで投球していたが、今冬からは球のキレのアップを求めてノーワインドアップでも投げるようにアドバイスした。 「野球にここまで育ててもらった。だから野球に恩返しをさせてほしいと思っている。結果は気にしないし、光高校がどこまで戦えるか楽しみ」。田上さんはそう語ると同時に、もう一つ楽しみにしていることがある。今回のセンバツに清原さんの次男・勝児選手(2年)が慶応(神奈川)のレギュラーとして出場するからだ。「(清原の)息子がどういう選手か見てみたい」。かつて戦ったゆかりのある選手にも思いをはせている。【藤田健志】