「われこそが天皇」 大量発生した「自称・天皇」たち GHQが注目し『ライフ』誌にも取り上げられた熊沢天皇の正体とは
「熊沢天皇」をご存じだろうか? 敗戦後の混乱の中、南朝の末裔として名乗りをあげ、『ライフ』誌や『ニューズウィーク』誌にも取り上げられた「自称・天皇」である。これは天皇家への信頼を低下させるための「GHQの陰謀」と言われることもあるが、彼自身はなにを求めていたのだろうか? 書籍『日本史 不適切にもほどがある話』(堀江宏樹著/三笠書房)より一部を抜粋・再編集し、戦後の日本で皇位継承を求めて奔走した熊沢天皇について紹介する。 ■ 終戦直後に現われた「熊沢天皇」はGHQの陰謀だったのか? 第二次世界大戦後の日本各地で、約20人もの自称・天皇が出現していたことはご存じだろうか。これは戦前にはなかった「言論の自由」の登場と、敗戦によって皇室の人気と権威が一気に揺らいだことの証明だといえる。 怪しげな自称・天皇たちの中で「大本命」とされたのが、いわゆる「熊沢(くまざわ)天皇」こと熊沢寛道(ひろみち)であった。 もともと天皇家の歴史は「万世一系」──古代から現代までの約2000年間、男系相続によって受け継がれてきた。戦後、「天皇」を自称する輩が、まるで雨後の筍のように発生する原因となったのは、14世紀半ばの約57年間に相当する「南北朝時代」である。 ■『ライフ』『ニューズウィーク』誌にも登場した熊沢天皇 南北朝時代の日本には、南朝と北朝という二つの皇室があった。文字どおりの乱世ゆえに、皇室関係者でさえ経歴が確かではないケースも多々あり、偽の系図をつくる素材としてはもってこいだったのだ。 そして江戸時代には富裕な商人や農村の地主の間で、貧しきインテリの代表格だった神社の神主などに依頼し、自分たちの家系を高貴な血統の末裔に仕立て上げることが流行した。その時に悪用されたのが、歴史の空白地点ともいえる南北朝時代である。 先祖の気まぐれでつくられた偽の系図や、血統を保証する偽の文物が家宝として、しかもそれなりの期間受け継がれていった結果、それを子孫たちが「真実」として信じ込んでしまうケースがありえたのである。ある意味、彼らも詐欺の「被害者」ではあったのだが、熊沢天皇はその中でも最強格の自称・天皇であった。 敗戦の翌年にあたる昭和21(1946)年のお正月に、昭和天皇による「人間宣言」が行なわれた。その直後の1月18日、熊沢天皇が英字新聞『Pacific Stars and Stripes』において鮮烈なデビューを遂げている。 「星条旗」を意味するこの日刊新聞は全編英語で、日本と韓国で無料配布されていたアメリカ軍の機関紙であった。熊沢天皇の登場は、国民の天皇家に対する信頼をさらに低下させるべく、GHQによって周到に計画された「陰謀」だったともいわれる。 同年中にアメリカの有名写真雑誌『ライフ』誌にも2ページにおよぶ写真入りの熊沢のインタビュー記事が掲載され、他にも『ニューズウィーク』誌に「皇位要求者」との見出しで、熊沢天皇の記事が掲載された。 ■われこそは「南朝の正統後継者」という根拠 南朝の正統後継者を自称する熊沢天皇こと、熊沢寛道は当時56歳。すでに頭は禿げ上がり、現代人の目には70代にも見える風貌で、名古屋市千種区内の洋品雑貨屋「日の出や」で店主をしていた。 熊沢家は愛知県が本拠地の資産家一族で、総本家、本家、分家などに細分されていた。しかも同じ熊沢一族なのに、各家によって家紋がまるで違っている。 愛知県・一宮市の時之島という地域の熊沢家は二つあり、「上(かみ)の熊沢」の紋はなんと徳川家と同じ「葵」。そして「下(しも)の熊沢」の紋はさらに驚いたことに、「十六弁の菊」だった(大野芳『天皇の暗号』)。 ただし、「十六弁の菊」とはいえ、天皇家の御紋は八重の十六弁の菊なので正確には違っている。熊沢家がいつからこれらの御紋を使っているのかについては、筆者が調査した限りでは不明だったが、なかなか奇妙な事態だといえよう。 熊沢寛道は、熊沢分家の出身だったが、複数存在する本家の一つの当主だった熊沢大然(ひろしか)に実子がおらず、その養子に迎えられていた。そして、養父・大然の「民間から皇族へ」という野望を引き継いでしまったようだ。 戦前の大日本帝国時代には、朝鮮や琉球の王族が日本の皇族と同等に扱われる例があった。熊沢大然は、熊沢家に伝わる家系図のとおり、自分たちは「南朝」の直系子孫(現在の天皇家は「北朝」の直系子孫)なのだから、われわれも「皇族」もしくは「準皇族」的な存在にしてもらえるのではないかという野望を抱いていた。 そこで明治39(1906)年、お手製の「調査書」を添付した「皇統認定の請願書」を、広橋賢光(ひろはし・まさみつ)伯爵など複数の華族たちの推薦文と共に、帝国古蹟調査会なる団体に提出したのである。 その請願書は明治天皇の側近で、内大臣の徳大寺実則(とくだいじ・さねつね)の手に渡るところまではいったのだが、そこで黙殺されてしまった。少なくとも史料上はそうなる。 しかし、熊沢大然はあきらめられず、大正元(1912)年に請願書をもう一度提出し、再び却下された後の大正4(1915)年、突然倒れて帰らぬ人となった。 これらの運動に巨額を費やした大然には、ただでは引き下がれないという思いがあったのだろう。「貴家(熊沢家)を南朝の正統と、帝国古蹟調査会と明治天皇ご本人が認めた」という徳大寺実則からの伝言があったなどと、養子に迎えた寛道(のちの熊沢天皇)には語っていたらしい。