「一晩で30人」も… 出稼ぎ売春婦「からゆきさん」の“過酷すぎる労働環境” 銭湯で「見知らぬ婆さん」からスカウトを受け、密航
深刻なトラブルに遭うケースも増えている、昨今の「出稼ぎ売春」問題。出稼ぎ売春については明治時代にはすでに見られ、「からゆきさん」と呼ばれていたが、労働環境はどういったものだったのだろうか? 明治末のシベリアでは「日本兵こそが最高の客」と言われたというが、ほぼ同時期のシンガポールでは「日本人客は身勝手で、最悪だった」という証言も見られる。「からゆきさん」と総称されつつも様々だった彼女たちの仕事について、見ていこう。 ■明治時代にはすでに見られていた、日本人女性の「出稼ぎ売春」 昨今、海外で深刻なトラブルに巻き込まれる日本人女性たちが、当地で密売春を行っているケースが目立つようです。明治時代から(あるいはさらにそれ以前から)、日本人女性による海外での出稼ぎ売春は確認されており、それが現代にも引き継がれてしまっているのですね。 かつては売春に限らず、日本国内よりも高い賃金を求めて海外に流出した男女を「からゆきさん」と呼びました。その手の労働者が多かった天草(現在の熊本県)・島原(長崎県)などの方言だった「からゆきさん」ですが、それは次第に海外に売春が目的で渡航する女性たちを指す言葉となっていきました。 しかし、時代・地域によっては、「からゆきさん」の仕事内容は想像以上に多彩でした。 ■娼婦をし、客のロシア兵から情報を奪った「女傑」も 戦前日本の軍事的生命線であった中国東北部の満州やシベリア地方に出かけた「からゆきさん」には、身分は娼婦でありながら、客のロシア兵から寝物語で得た情報を当地の日本師団に流し、「女傑」の扱いを受けた者もいます。 たとえば「シベリアお菊」の異名を取った井上キクは、シベリアで娼婦と兼業した女スパイ、もしくは当地に点在する日本師団の間をメッセンジャーとして渡り歩きました。いつしか年をとって「お菊ばあさん」と呼ばれるようになった後も、彼女は軍上層部から「功労者」として世話をされ、あるときには感謝状まで授与されたという記事が、昭和2年(1927年)の「サンデー毎日」に美談として掲載されています。 ■銭湯で見知らぬ婆さんからスカウトを受け、シンガポールへ 満州・シベリア地方の「からゆきさん」にとっては日本兵こそが最高の客であり、ロシア人や中国人の相手をすることは嫌なこと、というのが常識だったそうですね。 しかし興味深いことに、明治21年(1888年)に生まれ、昭和42年(1967年)に亡くなった長崎県・島原市出身の元「からゆきさん」の女性――彼女が匿名なのは、日本国内で売春が違法行為になった第二次世界大戦後の社会情勢の影響でしょうが、史料上は「水田春代」と呼ばれる女性にいわせると、日本人客の相手は最低の体験だったというのです。 「水田春代」は、当時の日本中にあふれていた売春を斡旋する女衒(ぜげん)からスカウトされ、生活力のない両親が作った借金返済のため、そして家族たちを養うためにシンガポールに渡りました。 驚くべきことに、そのきっかけは銭湯で見知らぬ婆さんから受けたスカウトだったそうです。その婆さんは女衒から雇われた女で、「好条件の出稼ぎがあるよ」と若い女性に声をかけて回っているのでした。女衒にいわれるがまま、「水田」は何人もの若い女性たちと共に福岡県の石炭積出港である口之津の岬から汚い船に乗せられ、シンガポールを目指しています。 ■おまるすら用意されていない、1ヶ月の不潔な船旅 「水田」たちが詰め込まれたのは、おまるの用意すらない不潔な船底で、シンガポール到着までの約1ヶ月、汚物を垂れ流しながら息を潜めているしかありませんでした。あまりの劣悪な環境ゆえに到着までに絶命する女性もいました。 大女優・田中絹代が「北川サキ」役で出演した往年の名画『サンダカン八番娼館 望郷』では通常の船旅の末、シンガポールの娼館に到着したということになっていましたが、それは彼女が密航者扱いではなかったからです。 「水田」のように密航者――つまり、法律の保護を受けられない不法滞在者の場合は、現地に到着しても、当局に見つからないよう「ムシロをかぶったまま道を這うように」進まされたといいます。 そして、とある建物に入ると、風呂で1ヶ月の汚れを落とし、バナナなどを食べさせられたそうです。彼女たちの姿は娼館から派遣された「年配の女性たち」――つまり遣り手婆が観察し、それぞれに見合った娼館に連れ込まれていったのでした(牧野宏美『春を売るひと 「からゆきさん」から現代まで』)。 娼館のお花代は「ショート」と呼ばれた短時間で3ドル。一晩で15ドル。これはおそらく米ドルでしょうから、現代の3万円~15万円以上でしょうか。客はシンガポール人やイギリス人、中国人から日本人まで様々でした。 ■日本人客は身勝手で、最悪で…「外国人が一番よか」と思った 労働条件はきわめて厳しく、「水田」が「昼の午前中、9時から晩のちょっと3時ごろまで」に取らねばならなかった客の数は最高で「49人」。性器がすりきれて痛いのでワセリンを塗って耐え忍ぶしかない中、日本人客との行為は最低の経験となったそうです。 「水田」によると、日本人は言葉が通じるものだから、行為の最中に「うれしがろうが」「気持ちよかろうが」などと声をかけてくるのがたまらなくイヤだったとのこと。むしろ「外国人が一番よか」と感じたそうです。 ちなみに映画版『サンダカン八番娼館』の原作者・山崎朋子が取材した「おサキさん」――「水田」同様にシンガポールの娼館にいた「からゆきさん」によると、一晩での最高人数は「30人」だったそうです。そして「水田」としめしあわせたように「おサキさん」も、日本人客は身勝手で、最悪だったと証言しているのです。 明治末期のロシアでは「最高」だったはずの日本人客が、ほぼ同時期のシンガポールでは「最悪」の扱い……。「からゆきさん」と総称されがちな戦前日本の海外売春経験者ですが、実際はかなりの地域差があったようですね。
堀江宏樹