パラリンピックへの出場限られる知的障害の選手:パリ卓球「金」和田選手の思いとは
西岡 千史 / 越智 貴雄
8、9月に行われたパリ・パラリンピックでは、3競技12人の知的障害者アスリートが日本代表として出場した。だが、日本選手団全体に占める割合はわずか6.6%。それは、大会の受け入れ枠に大きな制限があるためだ。知的障害のあるパラリンピアンは、パリ・パラをどう戦い、何を思ったのだろうか。
夢に見た金メダル
12日間の熱戦を終え、9月8日に行われたパリ・パラリンピックの閉会式。この場は、日本中の知的障害者とその関係者にとって、意義深いものとなった。 8万人の大観衆の中で、日本選手団の代表としてスタジアム内の特設ステージを行進したのは、卓球女子知的障害のクラスで優勝した和田なつき選手と、競泳視覚障害クラスの男子100メートルバタフライで2連覇、50メートル自由形で金メダルを獲得した木村敬一選手だった。 関係者は、和田選手について、「おそらく知的障害者の日本人選手として初めての旗手」と語る。
全盲の木村選手は和田選手の右肩に左手を添え、会場に集まった各国・地域の選手団や観客に手を振る。木村選手を誘導した和田選手は、国旗を両手でしっかりと握り、声援に笑顔で応えた。 五輪でもパラリンピックでも、アスリートにとって閉会式の旗手に選ばれることほど名誉なことはない。スポーツは「健常者」と「障害者」、そして「障害の種類」といった区別を消し去り、勝った時は一緒に喜び、負けた時はともに悔しさを分かち合う。そんな仲間をつくってくれた。 大会期間中の8月29日に21歳の誕生日を迎えたばかりの和田選手は「旗手に選んでいただいてとてもうれしいです。初のパラリンピックが自分にとって最高の思い出になりました。夢に見た金メダルを取れて私は幸せです」と喜んだ。
いじめ受けた中学時代、卓球と出会い変わる
175人の日本代表選手のうち、知的障害クラスで出場したのはわずか12人。メダルの総獲得数は4つで、和田選手の金メダルは知的障害クラスの選手で唯一だった。支援してきた母も、「知的障害のある子は、人生の経験をさせてもらえる場が少ない。卓球は、経験する場所を与えてくれた」と話す。 和田選手は、小学生の頃にいじめを受けて学校になじめず、自宅に引きこもりがちな生活を続けていた。それが、中学2年生で卓球と出会ったことで運命が変わった。検査で知的障害が分かったのもこの頃だった。和田は、卓球と出会って「自分に自信が持てるようになって、『私は私』という考えになった」という。 自他ともに認める負けず嫌いで、練習でも試合でも、うまくいかない時は涙を流して悔しがる。研究熱心で、試合で操るサーブの種類は10種類以上。高校生になってから本格的に競技を始めると、パラ卓球で頭角をあらわすようになる。2022年11月に女子ダブルスで国際大会デビューしてからは、23年に中国・杭州で開催されたアジアパラ競技大会で優勝、そしてパラリンピックまで制覇した。 小さな成功体験を少しずつ積み重ねることで、自分に対する自信にもつながった。これは、和田選手に限ったことではないだろう。日頃、偏見にさらされがちな知的障害者が、スポーツを通じて変わり、周囲の人の心の壁も取り払っていく。パリ五輪・パラリンピックのテーマは「Games Wide Open(広く開かれた大会)」だったが、和田選手の金メダルはそれにふさわしいものだった。 和田選手は金メダル獲得後のインタビューで、かつて自宅に引きこもっていた自分が卓球に出会って人生が変わったことを聞かれ、「家にいるだけが世界ではないので、勇気を出して一歩踏み出してほしい。そのことがちょっとでも伝わればいいなと思う」と、他の知的障害者の人々への思いを込めて話した。