家康家臣の立場で秀吉を叱り飛ばし、利根川の流れも変えた!? 埼玉県伊奈町の由来になった武将とは…<インフラ工事の神>が残した偉業の数々
◆インフラ工事の神・忠次さんの“基礎” 忠次さんは1550年(天文19)に小島で生まれたそうで、徳川家康の8歳年下にあたります。 このまま順風満帆かと思いきや、1563年(永禄6)の「三河一向一揆」(家康に反発した三河の一向宗による一揆)で忠次さんのお父さんの伊奈忠家が、一揆側に味方してしまったため松平家から追放、忠次さんも父に従って三河を離れ、伊奈家は再び流浪の旅に出ることに。 しかし、1575年(天正3)の「長篠の戦い」でお父さんが松平信康(家康の長男)の陣にこっそり参加して活躍。忠次さんは父とともに徳川家に復帰します。 こうして松平信康の家臣となったものの、4年後に家康と対立した松平信康は自害に追い込まれ、忠次さんはまたまた松平家を離れることになります。 先に三河を離れていた伯父(伊奈貞吉)を頼って、父とともに仕方なく堺(大阪府堺市)に仮住まいしていたところ、あの事件が起きます。1582年(天正10)の「本能寺の変」です。 この時、家康は偶然にも忠次さんが暮らしていた堺を観光していて、京都に戻るところでした。しかし、同盟相手の織田信長の死を聞いて、岡崎への決死の逃走劇「伊賀越」を決行します。 堺在住の忠次さん親子は独自にパイプを築いていたのでしょうか、この伊賀越えで大活躍をしたそうで、徳川家に復帰することを許されたそうです。まさに紆余曲折! 忠次さんは1586年(天正14)に家康が駿府城へ移った際に家康の近習(きんじゅう。側近)に大抜擢されます。これがインフラ工事の神・忠次さんの“基礎”です。
◆秀吉をも叱り飛ばした“サムライ” 忠次さんは最先端の情報や品々が入ってくる堺で土木知識を得たのでしょうか、ハッキリとはわかりませんが、家康からインフラ関係の仕事を任されるようになります。 たとえば、1590年(天正18)の「小田原征伐」(豊臣秀吉が北条家を滅ぼした戦い)。関東を目指す豊臣の大軍が、家康の領地の三河や遠江・駿河(静岡県)を通過することになりました。 となると、大軍がちゃんと通過できるように、道路の整備や船の準備、その他にも進軍の段取りを組んだり、兵糧の準備や秀吉らの接待などなどをしたりしなくてはいけないわけですが、この実務を任されたのが忠次さんでした。豊臣軍は総勢20万以上といわれていますので、その仕事量を考えるだけで、私はお腹が痛くなりそうです。 このミスの許されない重要な仕事をしっかりとこなす忠次さん。それだけじゃなくて、進軍中の「秀吉を叱った」という武勇伝も『徳川実紀(じっき)』(『台徳院殿(たいとくいんでん)御実紀』)などに残されています。 秀吉が吉田(愛知県豊橋市)まで進軍してきた時、長い雨が続き、強い風も吹いているのに、秀吉がすぐに兵を進めようとしたので、忠次さんはしばらく吉田に滞在するように進言しました。 すると、秀吉は機嫌が悪くなり、「この先、大井川や富士川など大河に水が増せば、大軍は進みづらくなってしまう。だから今、風雨の中でも急いで兵を進めようとしているのだ。汝はどのような思慮があって止まれと言ってくるのだ」と怒ってきたといいます。 私だったら「すいません! 行ってください! お気をつけて!」とペコペコしてしまいそうですが、忠次さんは違います。秀吉を少しも恐れずにこう反論しました。 「急いで軍を進めるのは小軍の時です。40万余の大軍で風雨の中に大河を渡って溺(おぼ)れる者が10人でもいれば、敵には“数百人が溺れた”というように伝わるでしょう。戦いが始まっていないのに、これは味方にとって損が多いことです。戦期はまだ迫っていません。お願いですから、殿下(秀吉)はしばらくここに止まって人馬を休めてください。殿下の武威(ぶい)はすでに関東を併呑していますので、1日の遅れが勝敗に関わることはありません」 なんというスマート回答! 秀吉は大いに感動して、「徳川殿には良き士(さむらい)が仕えている」と話したそうです。 その後、北条家は滅亡を迎えるわけですが、その事後処理も大切です。北条家の居城だった小田原城を引き取ると、城内の蔵に残る兵糧の管理を徳川家が任されることになりました。 関東への領地替えが命じられてドタバタと忙しい家康から、担当に指名されたのが忠次さんです。なんだか武将っぽくない仕事ばかりのようですが、武将にとって合戦はあくまで数ある仕事のうちの一つで、普段は裁判だったり年貢の管理だったり警備だったり工事だったりと、今でいう公務員の方々のような仕事をしていました。
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