赤羽、川口、大宮よりも古い…京浜東北線“ナゾの途中駅”「王子」には何がある?
山の上から線路側を見下ろす。なんだか昭和っぽいビルが見える
そんな飛鳥山公園から東側、線路側を見下ろしてみる。京浜東北線や上野東京ラインの電車が行ったり来たり。高台の公園と同じレベルには東北新幹線の高架が横切っていて、線路の向こう側を見通すことは難しい。それでも千里眼でも有しているつもりで眺めてみると、そこにあるのは「サンスクエア」と名付けられた実に昭和びた商業ビルである。 王子駅前の広場から明治通りを挟んだ場所にあるサンスクエアは、ボーリング場にパチンコ店、ゴルフの打ちっぱなし、また東武ストアをはじめとする店舗がいくつか入った雑居ビルだ。 出入りしている人も多く、なかなかの賑わいぶり。1972年から営業しているというから、年季が入っているのも頷ける。50年以上経っても活気が衰えないのもまた、王子の町の繁栄ぶりを象徴しているというべきか。 このサンスクエアの一角に、「洋紙発祥之地」という記念碑があった。説明書きをじっくりと眺めているおじさんやおばさんの姿も。昭和びた商業ビルと、それとは明らかに不釣り合いな記念碑の存在。いったいどういうことなのか、おじさんとおばさんに並んで説明書きを読んでみた。 どうやら、この場所にはかつて製紙工場があったようだ。渋沢栄一が旗を振って設立された製紙会社「抄紙会社」が、1875年にこの地に王子工場を開いた。千川用水やすぐ脇を流れる石神井川の水を工業用水として活用できるうえ、荒川(隅田川)の舟運も使える。それでいて都心に近いという、地理的なメリットがあったのだろう。 抄紙会社はその後王子製紙と名を変えて、1916年には王子の市街地の北側にあった印刷局の十條分工場を買収するなど、規模を拡大。日本を代表する製紙会社へと成長してゆく。
十條工場には王子駅の脇から貨物輸送のための専用線も敷設されていた。この専用線は十條工場の大部分がマンションに変わり、一部が倉庫になってからも営業が続けられており、廃止されたのはつい最近の2014年。だから、いまも廃線跡が町中にまったくはっきりと残っている。 王子製紙は、戦後の財閥解体によって3社に分割され、王子工場は十條製紙に引き継がれている(現在は日本製紙)。ただ、王子工場は空襲によって大きな被害を受けており、そのまま復旧されることはなく、1972年になって商業ビルのサンスクエアに生まれ変わった。 王子の町は、王子製紙の製紙工場が生まれたことで都市化がはじまった。以後、多くの工場が集まるようになり、1883年に日本鉄道が開業するといきなり駅も与えられた。赤羽や川口よりも先に駅ができたあたり、王子製紙を中心とした工場群の利便性を考慮したのだろう(日本鉄道の経営陣には渋沢栄一も名を連ねており、我田引鉄の向きもあったかもしれない)。 ともあれ、江戸時代以来の行楽地・王子は、明治に入っていち早く工業都市として生まれ変わった。工場があれば働く人もいるわけで、周辺に住宅地、また商業地や繁華街が形成されるのもとうぜんのなりゆきだ。こうして、いまの王子の町の原形が形作られたのである。