留学した米高校のロゴはキノコ雲…女子大学生がドキュメンタリー制作で追い続ける「原爆に対する答え」
2022年に公開された「あのプラタナスの木のように」。カメラは6歳のときに広島で被爆した後東利治さんに密着。後東さんはこれまで“あの日”のことを口にしてこなかった。 【映像】アメリカ・リッチランドにも“被ばく”した人が 「(子どもに被爆の話をしたことは)全然ない。伝えたくない。実際に身近にそういう体験をした人は話したくないんじゃないかと思う」 そんな後東さんが胸の内にしまっていた“あの日の記憶”について話すドキュメンタリー。出演するきっかけになったのは、広島に縁もゆかりもなかったこの作品の制作者だ。
早稲田大学に通う古賀野々華さん(23)。現在は大学で原爆の被害と加害の構造などを研究しながら、大学外でドキュメンタリー制作や被爆者との対話を行っている。 福岡県出身の古賀さん。被爆地出身でもなければ、被爆者の家族でもない。彼女の“原点”となったのは高校時代の留学だった。 街のいたるところに掲げられたキノコ雲のイラスト。彼女が留学したのは、アメリカのワシントン州リッチランド。留学したリッチランド高校もキノコ雲のモチーフが学校のロゴとして体育館や壁やパーカーなど様々な場所で使用されていたという。 街のすぐ近くには、第二次世界大戦中に設立された「ハンフォード核施設」があり、ここで作られたプルトニウムを積んだ原子爆弾が長崎に投下された。 「街の人たちは、原爆が戦争を終わらせたと信じ、自分たちが原爆を作ったことに誇りを持っていた。(学校では原爆についての)授業は一度もなく、根拠もなく誇りに思っている感じがした。自分たちの歴史を学ぶ機会もなければ、長崎に落とされた原爆の惨状や犠牲者の数を学ぶ機会も全くなかった」(古賀さん) 黙ってはいられなかった。留学生としての意義を感じた古賀さんは、被爆国の気持ちや被爆者の存在を伝えるため、校内でスピーチを行った。 自身にとってキノコ雲は犠牲者や平和を心に刻むもの。長崎に投下された原爆の当初の目標は福岡だったことから「天気次第で自分はこの世にいなかった」といえる。 スピーチ後、「日本側の視点は知らなかったからありがとう」という声を聞いた。 古賀さんの勇気は被爆者の心を動かす。その言葉は広島新聞にも掲載され、その記事を読んだ後東利治さんが「自分も何か被爆者として広島で頑張りたい」と彼女に手紙を送ってきたのだ。 そして2022年、ドキュメンタリーの制作がスタート。古賀さんのカメラの前で、後東さんは“あの日”のことを話し始めた。 「自分だけ生き残って悪いなという気持ちがある。複雑だ」(後東さん) 「(被爆者の方と話すのは)初めてで、言葉にならない感情があった。被爆の体験は壮絶でどうしても自分の中に落とし込むことが難しい。ただただ頷いて聞くことしかできなかった」(古賀さん)