『ライオン・キング:ムファサ』鮮烈でスリリングな“バリー・ジェンキンス映画”としての前日譚
リアリズムの呪縛から解放されて
『ライオン・キング』のあと、プライドランドの王となったシンバと妻ナラのあいだには長女キアラが生まれた。新たな子どもの出産が迫ったいま、シンバはナラに付き添うあいだ、キアラの世話をティモンとプンバァに頼む。祈祷師のラフィキは、シンバの亡き父であるムファサの昔話を語りはじめるのだった。 かつて幼いムファサは、愛する両親と“約束の地”ミレーレに向かっている途中、突然の洪水によって家族と引き離されてしまった。ひとりさまようしかなくなったムファサは、とあるライオンの部族の王子タカと出会い、意気投合する。ところが、優しいタカの母に対し、国王である父は“よそ者”であるムファサを受け入れようとしなかった。そんな折、残酷なホワイトライオンのキロスがタカの部族を狙っており……。 物語は、キアラがラフィキの話を聞いている現在と、若き日のムファサを描く過去、2つの時系列を行き来しながら展開する。この構成は『ゴッドファーザー PART II』(74)などにも通じる前日譚映画の王道であり、どうしてもシリアスな方向に傾斜しがちなムファサとタカ(のちのスカーである)の物語に対し、ティモン&プンバァのコミカルなやり取りを差し挟む効果もある。 成長の過程でムファサが才能と誠実さを花開かせる一方、両親の庇護を受けて育ったタカは自らのなかに芽生えてくるコンプレックスに葛藤する。そんななかでキロスにも追われながら、ムファサとタカは仲間たちとミレーレを目指すのだ。 ポイントは、この前日譚が『ライオン・キング』シリーズや、超実写版の前作から巧みに逃れていることだ。劇中ではキーワードの「サークル・オブ・ライフ」がせりふの中で何度も繰り返されるが、物語としては独立した部分が大きい。また、オリジナル版はウィリアム・シェイクスピアの戯曲「ハムレット」を下敷きにしており、テーマやストーリーには共通点も多いが、本作は“シェイクスピア風”でこそあれ、厳密にはそこからも逸脱している。 最も功を奏したのは、超実写版の「オリジナルを写実的に再現・再創造する」というコンセプトから距離をとったことだろう。独自のストーリーである以上そうするしかなかったとも言えそうだが、前作と同じく高い写実性をたたえた背景に対し、ムファサやタカ、キロスなどのキャラクターはより自由なアニメーション表現に近づいた。“超実写”としてはありえないような、アニメーションの強みを活かした抽象的表現も時折取り入れられている。 この方向性は映画の序盤から明らかで、ムファサとタカが歌う「ブラザー/君みたいな兄弟(I Always Wanted a Brother)」のチェイス・シーンでは、目を見張るほど鮮やかなカメラワークと表情のクローズアップによって、ふたりの関係性とその微細な変化が雄弁に語られる。リン=マニュエル・ミランダによる楽曲もあいまって、このシーンだけでもこみ上げるものがあるほどエモーショナルな仕上がりとなった。