結局「邪馬台国論争」はどうなるのか? 邪馬台国の卑弥呼と纏向遺跡の箸墓古墳との関係
江戸時代から続く論争の一つに「邪馬台国論争」があります。最近の論調を拝見していると、畿内説を強調なさる研究者の方が多いような印象を受けるのですが、私はなぜ畿内説をことさらそんなに強く主張されるのか、理解に苦しんでいます。 ■邪馬台国「畿内説」優勢への疑問 『魏志倭人伝』に記される邪馬台国がどこにあったのか?女王卑弥呼はどこにいたのか……? 私も子供のころから本当に知りたくて仕方がありません。大きく分けると「畿内説」と「九州説」だとされていますが、中には四国説や信州説など、全国いたるところに邪馬台国があったように様々な説が唱えられています。 要するに邪馬台国と同じ弥生時代の有力な遺跡や痕跡が発見されると、そこが邪馬台国であってもおかしくないという事なのでしょう。 私がこれまでにお世話になった方の中にも「邪馬台国は纏向(まきむく)で決まりだ!」と断言される先生方が何人もいらっしゃいますので、申し上げにくいのを敢えて申しますと、どうにも決定的な物的証拠が全く無いとしか思えず、その勢いを呆然と眺めてしまうのです。 ・突然出現する巨大な前方後円墳の大市墓という名の箸墓古墳は3世紀半ばから後半の造営である。 ・箸墓は大和王権初期の前方後円墳に違いない。 以上2つの研究結果は素直に受け入れられますし、その成果は素晴らしいと思います。 しかしなぜ、あの邪馬台国の卑弥呼の墓が箸墓だと言えるのか? ここのつながりが飛躍しすぎていて理解に苦しむばかりなのです。 長く論争される邪馬台国問題は、『魏志倭人伝』と呼ばれる2000文字程度の古代中国の辺境情報しか手掛かりがありません。 もちろん志賀島の金印のように「親魏倭王」の金印が出土すれば大きな物的証拠になるでしょうが、それでも持ち運びのできる小さな金印が出土したという事だけでは決定打として物足りません。 金印の出土状況と同時に検出されるほかの出土品などとの関係が合理的で明快であれば、かなり有力な証拠になりますが、その周辺の綿密で大規模な発掘調査をしなければ、ことがことだけに決定打とはいえないでしょうし、志賀島の金印でも問題になった真贋論争が巻き起こるのも目に見えています。 私も箸墓については興味を大きく持っていますので、専門の先生方の調査が自由に本格的にできれば良いと思っています。 私の箸墓に対する疑問と願いは、なぜ後円部が四段で頂上部にもう一段の円型壇という土盛があるのか? 直線であれば技術的に容易なはずの前方部を、なぜ難易度の高い撥型(ばちがた)に設計したのか? 基準となる重要な前方後円墳なので、もう一度慎重に精査して、本当に築造年代は3世紀半ばなのかも検証してほしい、ということに集約されます。ただし、それには宮内庁の発掘調査許可が無ければ完全な実現はできません。 纏向遺跡が大和王権発祥のグランドゼロ地点であることは間違いないと思います。そのうえ私は研究者の実感やインスピレーションは重要だと思っています。 しかし「纏向遺跡や箸墓」と「あの邪馬台国とあの卑弥呼」を結びつける根拠がどこにあるのだろうかと、やはり思ってしまうのです。弥生時代の末期には日本列島の広い範囲に大小さまざまな弥生王国があったのですから、『魏志倭人伝』に記録された邪馬台国はその中の一つの有力な邑国だったとしか言えないと思うのです。 大和や河内地域にも唐古・鍵遺跡や池上・曽根遺跡などの大きな弥生邑国がいくつもありました。 ただ面白いのは、そういった巨大な弥生遺跡が、纒向遺跡が造営される頃に矮小化していくと見られていることでしょうか? これらの研究が進めば、纒向に強大な大和王権が発展していく過程が判明するのでしょうね。 ほかにも奈良県の御所市や葛城市などに盤踞していた、鴨氏や葛城氏が4世紀、5世紀の大和王権確立にどう関与していたのかがわかればさらに良いのですがね。 長年研究をされている専門の先生方の見解を否定するつもりはもちろん全くありませんが、わかりやすく納得のいくように、証拠を示して説明くださればと願っているのです。箸墓などの調査を宮内庁が禁止している中で、大変だとは思いますが……。
柏木 宏之