甲斐拓也、巨人入団のウラ側初告白…「とてつもない責任、相当な覚悟がいる。成長のために、覚悟を持って挑戦」
ソフトバンクから国内フリーエージェント(FA)権を行使し、5年以上の大型複数年契約で巨人入りした甲斐拓也捕手(32)が23日、「とてつもない責任」を背負って移籍したことを激白した。大分・別府市内のホテルで行われたトークショーで移籍決定後、初めて公の場に登場。約12分間の取材で4度「覚悟」と繰り返し、絶対的な扇の要だった古巣から、あえて新天地に飛び込んだ思いを言葉にした。阿部慎之助監督(45)から入団交渉時に贈られた言葉など、葛藤した“1か月”を赤裸々に語った。 甲斐は真っすぐに背筋を伸ばし、報道陣の前に立った。笑顔はない。17日の契約合意発表後、初めて公の場で発した言葉の端々に、不退転の決意がにじんだ。 「野球選手として、まだまだどれだけ成長できるかという気持ちは絶対にある。必要なんだと言ってくれるチームがあって、それがジャイアンツで。野球をもっと知りたいという思いがあった。ホークスはもちろん好きですし、離れるのはどうかとは思ったんですけど。プロ野球選手として成長のために、覚悟を持って挑戦したいなと思いました」 10年育成ドラフト6位でソフトバンクに入団。17年から8年連続で100試合以上に出場し、4度の日本一に導いた。11月13日のFA宣言から決断するまで1か月以上、悩み抜いた。古巣も複数年の大型契約を用意して慰留してくれた。巨人との交渉の場で阿部監督から直接かけられた言葉が胸に刺さった。 「『ジャイアンツの司令塔になってほしい』と。『俺自身も(前監督の)原さんに、グラウンド上ではお前が監督だって言われて、たくさん怒られてきた。俺もそう思っている。キャッチャーはグラウンド上では監督、司令塔。それが(甲斐には)できると思っている』と言ってもらいました」 提示された背番号からも、指揮官の気持ちが伝わった。用意されていたのは、阿部監督が現役時代に背負った「10」だった。 「阿部さんから『似合うと思うし、俺の思いを引き継いでほしい』と強く言っていただきました」 育成からはい上がり、侍ジャパンの正捕手にまで上り詰めた。 「(入団時は)育成で、どちらかと言うと入れてもらった。今回は『必要なんだ』と。求められて行くというのは、今までなかったので。ドラフト1位でとられた人たちって、きっとすごくうれしいんだろうなと。(出身が)大分で、小さい頃からジャイアンツ戦を見ていたので。そのジャイアンツが来てくださいと言ってくれた。うれしいですよ」 常勝軍団の絶対的な司令塔だったからこそ、勝つことの難しさは誰よりも知っている。 「生半可(な思い)じゃダメだと思います。ホークスと同じで、ジャイアンツは勝たなきゃいけないチーム。とてつもない責任、覚悟は必ず必要なので。ワクワクというのは本当にない。(移籍を)決めた今でもやっぱり、相当な覚悟がいると思っています」 地元・大分で覚悟がつまった所信表明。「巨人・甲斐」が、ひたむきに第二のプロ野球人生をスタートさせる。(内田 拓希) ◆甲斐に聞く ―盟友のメッツ・千賀に相談は。 「千賀の話を聞いて『挑戦してる人ってすごいな』と思った。上を目指そうとする気持ちが必要だなと。挑戦をしたいけど、不安があると話したら『でも日本でしょ? 2時間で福岡も行き来できるでしょ』って。離れているようで離れていないと。確かにそうだなと思いました」 ―自主トレをともにしている山瀬と同僚に。 「本当にいいキャッチャー。これからライバルになるところもあるんですけど。あの若さであれだけの力を持っているので、これから力を合わせてやっていければいいなと」 ―ソフトバンクの思い出。 「たくさんあるけど、出始めのころ工藤監督に基礎を教わった。たくさん怒られましたけど、あの期間があったからこそ今がある。達川さん(ヘッドコーチ)には17、18年にたくさんサポートしてもらって、守ってもらった。本当に感謝しています」 ◆ソフトバンクの10年育成ドラフト 多くの選手が大出世を果たした年として知られる。4位で千賀、5位で牧原大、6位で甲斐が指名された。千賀は12年4月に支配下登録され、16年から7年連続2桁勝利をマークするなど、鷹のエースとして君臨し、23年からメッツに移籍した。甲斐は13年11月に支配下入りし、14年に1軍デビュー。17年から正捕手の座をつかんだ。牧原大も12年6月に支配下入りをかなえ、貴重なユーティリティー選手として貢献している。 ◆甲斐 拓也(かい・たくや)1992年11月5日、大分市生まれ。32歳。楊志館から2010年育成ドラフト6位でソフトバンクに入団。ベストナイン3度、ゴールデン・グラブ賞7度のほか、18年日本シリーズMVP、21年東京五輪ベストナイン。170センチ、87キロ。右投右打。
報知新聞社