追悼・クインシー・ジョーンズ、NONA REEVES・西寺郷太「時代や流行の変化を感じ常に挑戦する人」
世界的ミュージシャンのクインシー・ジョーンズが、11月3日にロサンゼルスの自宅で亡くなった。彼の功績を挙げればキリがないが、最も有名なものがプロデューサーとして『BAD』『スリラー』など歴史的名盤を世に送り出してきたマイケル・ジャクソンとの「仕事」だろう。他にもスティーヴィー・ワンダーやボブ・ディラン、ビリー・ジョエルら、アメリカのスーパースターが一堂に会して録音したチャリティーソング「ウィ・アー・ザ・ワールド」も彼のプロデュースである。 【画像】若い頃のマイケルジャクソンの姿も!横浜で開催された写真展「MJ」 日本と関連したトピックで言えば、大島渚監督の映画『愛のコリーダ』に由来する「Ai No Corrida」をクインシーがカバー。この楽曲が日本国内でもヒットし、オリコンの洋楽チャートで年間1位を記録した。今回、マイケル・ジャクソンに精通し、クインシー・ジョーンズへの言及も数多くしてきたNONA REEVES・西寺郷太氏に、クインシー・ジョーンズの功績と偉大さについてアンケート形式で聞いた。 ◼️「若い才能を見出す巨大な駅、空港のような役割を果たした」 ーークインシー・ジョーンズの訃報はいつ知りましたか? 西寺郷太(以下、西寺):クインシー・ジョーンズの訃報は、たまたまティト・ジャクソン(ジャクソンファミリーの次男。ジャクソン5のメンバー)の葬儀のためLAに向かう羽田空港で知りました。LAに着き、葬儀が行われているフォレスト・ローンに向かうためにタクシーに乗った矢先、マイケルとクインシーの代表作『スリラー』の「スタート・サムシング」がカーラジオから流れたんですね。フォレスト・ローンにはマイケル・ジャクソンのお墓もあるんですよね。ラジオDJが、クインシーの追悼曲として選曲していたことが後にわかったんですが、あまりにも出来すぎたタイミングに全身が震えました。 クインシーは、91歳の大往生。もちろん数年前から、体調の悪さは感じていたのですが、やはり小学四年生で最初に好きになって、今に至るまで最も敬愛するプロデューサーですから、巨大な喪失感があります。訃報が飛び交う中、自分がクインシーが暮らし、愛したLAの景色にいれることの不思議さに感じ入りました。帰国後、DJやラジオの特集などのために彼の音楽人生、素晴らしい作品群を改めて聴きながら味わっています。 ーー西寺さんはこれまでも数多くの媒体でクインシー・ジョーンズに対してコメントされていました。改めてクインシーに対する西寺さんの評価をお聞かせください。 西寺:若くしてジャズ・トランペッターとして活躍しながら、時代や流行の変化を感じ取り、常に新しいトライを重ねたマスターピースを数多く生み出した天才、というイメージです。何より、いい曲、いい声、才能を見つけて開花させる能力、さらにユーモアを含めてアーティストや演奏家をその気にさせ爆発させるコミュニケーション力が凄まじい。プロデューサーとして活躍する年齢になってからはミニー・リパートン、チャカ・カーン、マイケル・ジャクソン、そしてヒップホップ・アーティストまで若い才能を見出す巨大な駅、空港のような役割を果たした遊び心と審美眼を併せ持つ唯一無二の存在だったと思います。