「東大生の就職先」にコンサルが選ばれる“身も蓋もない”理由、今と昔で違ってきた「賢い」ということの基準
今の時代にエリートといわれるような人たちは、もともと受験戦争に勝ち抜いて、いい大学に入り、卒業すると官僚のトップになったり大企業に入ったりしている。そのような道を自らの意思で選択し、周囲との争いに勝ってきた人たちは、まさしく「自分の利益のため」だけを考えてきたわけだ。 ごく一部には「日本を救いたい」といったことを本気で思っている人もいるのだろうが、今の日本でそういうことを考えている人は、だいたいが落ちこぼれるかパージされたりする。そのような「自分なりの考え」は受験に必要ないからだ。
そしてエリートたちは、一見すると何か日本の悪口を言ったり社会を斬ったりしているようでも、政権の弱点に突き刺さるような肝心なことは決して言わない。 それよりも「政治のことはよくわからない」などと言って無関心を装っている人のほうが「賢い」ということになっている。 一般の人たちも同じような価値観に染まっていて、テレビのバラエティ番組などでは、どんな仕事をしているかよくわからないような人でも「お金持ち」というだけでもてはやされている。誰がどれだけ儲けているかが価値判断の基準になってしまっているのだ。
■「賢い」ということの基準が変わってしまった 私たちの若い頃は、あからさまに政権の悪口を言っていたし、お金に対しても執着が薄くて「貧乏でもいいや」という人が結構いたものだ。 むしろ世間の潮流から外れたところで学問的な探求を続ける人のことを「賢い」と言っていた。今と昔では「賢い」ということの基準が違ってきている。 人生のタイムスパンをどこで区切るのか、というところも違ってきている。これからの数年間で「稼げるうちに稼ごう」と言って金儲けに走り、その後でポシャったとしても「5億円ほど手元に残ったから、あとはそれなりに暮らしていけばいい」というような人が増えているように感じられる。
たとえば今ユーチューバーをやっている人などは、まさにそんな感じではないか。 早いうちにお金を稼いで引退して、あとは悠々自適に暮らそうという考えを意味する「FIRE」という言葉が流行っているのも、いまどきの感覚なのだろう。
池田 清彦 :生物学者