「日本の司法は中世並み」…法律家以外の多くの日本人が、「法」にも「法に関する知識・感覚」にもうとい「納得の理由」
「法の支配」より「人の支配」、「人質司法」の横行、「手続的正義」の軽視… なぜ日本人は「法」を尊重しないのか? 【写真】なぜ日本人は法を遵守しないのか?…日本人の深層心理に張り付いた法意識の闇 講談社現代新書の新刊『現代日本人の法意識』では、元エリート判事にして法学の権威が、日本人の法意識にひそむ「闇」を暴きます。 本記事では、〈なぜ日本人は「法」を遵守しないのか?…日本人の深層心理に張り付いた「日本的法意識」にひそむ「闇」〉にひきつづき、法意識論の前提として、「現代日本人の法意識」について考えることの意味とその重要性について論じていく。 ※本記事は瀬木比呂志『現代日本人の法意識』より抜粋・編集したものです。
日本における近代的法意識の未熟さ
『現代日本人の法意識』第2章で論じるとおり、明治時代に近代的法制度が導入されるまでは、日本には、現在の民法、商法等に相当するまとまった民事系の法典はなく、江戸時代には、各奉行ないしその配下にある司法官僚が適宜の裁判を行っていた。刑事法の領域では、18世紀半ばに成立した「公事方御定書」があり、これは、西欧的な制定法ないし判例法集成とは異なるものの、刑法・刑事訴訟法の領域を一応カヴァーしていたが、民事法の領域では、裁判は、先例や慣習に基づいていたのである。 つまり、江戸時代の法は、もっぱら「統治と支配のための法」であり、したがって、民事の比重は軽く、刑事についても、先の公事方御定書でさえ、現実には筆写によって広く流布していたものの、建前上は、「秘密法」であり、人々に知らされるべきものではないとされていた。まさに、「民は由(よ)らしむべし、知らしむべからず」が徹底していたのである。 また、江戸時代をも含め、それまでの日本法には、権利という一般的な概念自体がなく、したがって、個人の私権は重視されなかった。法曹や法学も未発達だった。さらに、法的な概念のみならず、普遍的理念一般についての認識や感覚も薄かった。最後の点については、現代の日本についてもなお相当程度にいえることかもしれない。 つまり、近代的法意識が根付いている程度という側面からみる限り、日本と欧米諸国では、非常に大きな差がある。これは、ある意味仕方のないことだ。明治時代にお雇い外国人の手をも借りながら短期間で西欧法を移入、カスタマイズし、大急ぎで身につけた日本人の法意識と、ローマ法以来の長い歴史の中で精緻な法体系を練り上げてきた西欧の人々のそれとの間に、近代的法意識という側面で大きな差があるのは、当然ともいえるからである。 問題は、上のような大きな相違ももちろんだが、現代日本人にはその「相違」自体が十分に認識されていないことにもある。そのことを象徴する一つのトピックを示してみよう。児童文学の名作として名高いルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を子どものころに読んだことのある人は多いと思う。しかし、そのエンディングを記憶している人はあまりいないのではないだろうか? 実は、キャロルは、最後の二章で、トランプのハートの王と女王が行う「刑事裁判」について詳しく語っているのだ。具体的には、被告人はハートのジャック、公訴事実は、女王が焼いたタルトの窃盗である。 初めて法廷に入ったアリスは、本で得た知識によって、そこにあるもの、いるものの名はほぼ全部知っていたので、すっかりうれしくなる。大きなかつらをかぶっているハートの王様が判事さん、陪審員席には12の生き物。アリスは、「陪審員たち(jurors)」という正確な言葉を知っていたのが得意で、二、三度その言葉を繰り返してみる。 マッドハッター(童話中では単に「ハッター」)の証人尋問中に喝采したモルモットが「裁判所侮辱」で拘束される。騒いだモルモットを役人たちが袋に放り込むのを見て、アリスは、「ああ、新聞によく出ている『裁判所侮辱による拘束』って、ああいうことなのね!初めてわかったわ」と納得する。 公爵夫人の料理番の尋問では、アリスを不思議の国に導いた白ウサギが、王様に向かって、「この強情な証人は、陛下が、ぜひとも『反対尋問』をしなければいけませんよ」と強く要請する。王様は、「ああ……、しなければならないなら、しょうがないからやるか」としぶしぶ承諾する。 ハートの王様は、面倒な裁判を早く終えたくてたまらない。そこで、何度も何度も、「早く陪審員に評決させよ、評決させよ」と促す。と、最後に、女王が、「いや。刑の言渡し(sentence)が先で、評決(verdict)は後じゃ」と突っ込む。本来は、陪審員が「評決」で「有罪無罪」を決めた後に、判事がそれに基づいて具体的な「刑の言渡し」をするのだが、女王は、これをひっくり返して、ナンセンスなことを言っているのだ。 怒ったアリス(元の大きさに戻りつつあるため、気が大きくなっている)が、「先に刑の言渡しをするですって!そんなの、たわごとよ、ばかげてるわ(スタッフ・アンド・ナンセンス)」と抗議してトランプたちをはらいのける。彼女はそこで目覚める。 この童話が出版されたのは1865年。日本ではちょうど江戸時代の終わりである(明治元年は1868年)。そのころのイギリス上流階層における小学校低学年の子ども(『鏡の国のアリス』によれば、童話のアリスの年齢は、厳密に、「七歳と六か月」と設定されている)は、司法と裁判に関する知識がアリスくらいあったか、あるいは、少なくとも、上の二章を「面白い」と感じられる程度には理解できたのである。 さて、現在の日本ではどうだろうか? 数学者を本職とするキャロルの一番のお気に入りであったアリスは、賢い少女だったに違いない。しかし、それにしても、彼我の制度の違いはおくとして、現在の日本で、裁判の実際や司法の機能、意味について、先の童話におけるアリス程度の知識、感覚、意識をもった子どもが、小学校中・低学年でいるだろうか?おそらく、小学校高学年でも少なく、中学生でやっとどうにかこうにか、というところだろう。また、場合によっては、高校生でも、アリスに及ばない法知識、法意識しかもっていないことだってありえよう。 だからこそ、日本人は、たとえ少年少女時代にこの童話を読んでいても、また、作者が非常に力を込めたクライマックスであるにもかかわらず、裁判の二章の内容は、全部きれいに忘れてしまうのである。