「天皇のブランド」を借りた武家の台頭
山口県下関市の赤間神宮にある「平家一門の墓」(筆者撮影)
平清盛は保元の乱(1156)と平治の乱(1159)を制して、武家政権を樹立した。その後、源氏に取って代わられるが、なぜ、平氏と源氏が武士を束ね、12世紀の半ば、台頭したのだろうか。 源氏と平氏は平安時代以降に臣籍降下した人たちだが、歴史を遡っていけば、王家の末裔氏族は、星の数ほどいる。神武天皇の末裔・多氏や敏達天皇の末裔・橘氏が有名だ。また蘇我氏も、第8代孝元天皇の末裔だったと『古事記』は記している。 古代王家の親族の多くは、中央で活躍する例が多かった。ところが、源氏と平氏の場合、少し様子が異なる。というのも、彼らは地方にはじき飛ばされていくからだ。 政敵を次々に滅ぼし朝堂独占を目論んでいた藤原氏が、次から次へと「再生産」される皇族出身者を邪魔に思い、中枢から遠ざけたのではあるまいか。 各地に散らばった平氏と源氏は、土豪たちを束ね、武士となっていく。特に9世紀後半の東国は治安が著しく低下し、平氏や源氏は鎮圧の目的を携えて東国に赴いたのである。 古墳時代の関東にも、源氏と平氏にそっくりな氏族が実在した。それが、上毛野(かみつけの)氏だ。 『日本書紀』崇神48年(おそらく4世紀)正月条には、ふたりの有望な皇子に夢占いをさせ、皇太子を選び、もうひとりに東国の治政を委ねたとある。その名を豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)といい、彼の末裔が現地に赴き、上毛野氏と下毛野(しもつけの)氏となった。関東北部に拠点を造り、睨みをきかせたのだ。 東国の民は、王家の末裔を大いに歓迎したといい、この「中央の権威をありがたがる」という風土が、平氏や源氏の東国進出を容易にした。
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関裕二