紀元前から2000m超の山頂にある巨像群と王墓、「世界八番目の不思議」ネムルト山
霊廟と聖域
アンティオコス1世の遺跡は、コンマゲネの歴史の中で類を見ないものだ。アンティオコス1世の父であるミトリダテス1世は、ネムルト山の麓にある首都アルサメイアに埋葬された。その墓は塚ではなく、岩の中に彫られたトンネル網の中にある。コンマゲネの王家の塚は、カラクシュ、ウチュゴズ(旧ソフラズ)、セセンクにもあるが、規模ははるかに小さい。 外観上、アンティオコス1世の墓では、アナトリアの他の君主たちの大きな墓と類似点が多い。ゴルディウムにあったフリギア王ミダスや、サルディスにあったリディア王アリュアッテスの墓などだ。紀元前8世紀から紀元前6世紀に建てられたこれら2つの霊廟は、埋葬室を覆う巨大な土の塚と長い回廊からなる。 アンティオコス1世は自身の墓に、アナトリアに明確な起源をもつ様式を採用した。しかし、墓の華麗な彫刻の装飾、山頂という比類ない景観、見えやすさにおいて、アンティオコス1世は先祖たちを凌駕した。 ネムルト・ダーがコンマゲネの王の偉大なる栄光のために建てられたことは間違いない。巨像の背面に刻まれた200行以上の長い碑文の中で、アンティオコス1世は以下のように宣言している。 「私はゼウス-オロマスデス、アポロン-ミトラス-ヘリオス-ヘルメス、アルタグネス-ヘラクレス-アレス、そして我が豊穣の地コンマゲネの神々の神聖な像を建てた。また、我々の祈りを聞く神々と鎮座するように、同じ採石場から、私自身の姿も像にした」 アンティオコス1世は自らを「正義の神の顕現(テオス・ディカイオス・エピファネス)」と称した。これらはすべて、ヘレニズム時代に東方で発展した神権君主制の特徴だ。 ネムルト・ダーは単なる霊廟というより、聖なる神殿のようなものだった。上述の碑文の別の部分では、この遺跡は「ヒエロテシオン」と呼ばれている。古代ギリシャ語で埋葬と祭祀の両方の機能を示す言葉だ。遺跡の構造は、宗教的儀式がここで行われていたことを示している。 塚の足元に通じる3つの道は、儀式の際に使われたのだろう。儀式の詳細も碑文に記されている。 ペルシャの習慣に従った服装の祭司が、儀式を執り行った。祭司はまず、黄金の冠で像に触れ、民衆からの貢ぎ物を受け取り、祭壇に香料を捧げた。最後に動物の生贄を捧げ、肉が並べられて宴会がおこなわれた。ワインが振る舞われ、音楽家たちが娯楽を提供した。
時の試練
ネムルト・ダーは、古代ペルシャとギリシャが交差する場所に位置していた。人里離れた場所にあるため、ギリシャやラテンの作家たちに詳しくあらためられることはなかった。 しかし、この遺跡の栄光は1881年に世界中に知られるようになる。ドイツの技師カール・ゼシュターがネムルト山に登り、目にした彫刻の美しさに魅了されたのだ。アンティオコス1世の統治後の千年間で、遺跡は地震やいくつかの破壊行為によって損傷を受けたが、像や祭壇は依然として畏怖の念を抱かせるものだった。 19世紀以来、ネムルト・ダーは古代近東で最も有名な遺跡の一つになり、1987年にユネスコの世界遺産に登録された。
文=Ángel Carlos Pérez Aguayo/訳=杉元拓斗