原作の映像化〝忠実〟は幻想 必要なのは〝納得〟だ 「セクシー田中さん」の場合
原作小説やマンガの「忠実」な映像化などというものは、所詮は幻想に過ぎない。ある種の虚構と言ってもいいだろう。メディアとしての特性が異なる以上、何らの「改変」も加えずに映像化することは、原理的に不可能だからだ。しかし、「原作に忠実である」という幻想/虚構は、視聴者が虚構の世界を安心して楽しむためにぜひとも維持されなければならない。そこには原作小説やマンガを映像化することの困難もまた存する。 たとえば1クール10話のテレビドラマ(連続ドラマ)の場合を考えてみよう。各話ごとに見せ場と次回の視聴を促すような〝引き〟を用意し、それらを45分前後の放送時間にきっちりはめ込みつつ、しかも最終回に向けて盛り上がっていくように全体を構成する必要がある。原作付きの場合であっても事情は変わらない。そのために、原作のエピソードを入れ替えたり、省略したり、逆に追加したりといった操作を加え、テレビドラマ用に脚色を施すことになる。だが、小説やマンガを映像化する際に改変が避けられないというのは、実はそれ以前の話である。
タイトル画面 よく似ていても異なるコンテクスト
芦原妃名子によるマンガ「セクシー田中さん」(既刊7巻、小学館)の物語は、「昼は地味なOL」として過ごし「夜はベリーダンサー」に変身する田中さんをめぐって展開していく。テレビドラマの第1話(Sexy 1)のタイトル提示画面の構図は、明らかにマンガの誌面構成を踏まえたものになっている【図1、2】。一見すると原作に「忠実」なようにも思えるが、よくよく見比べてみると、この部分だけでも大小さまざまな違いを指摘できる。 ドラマ版の田中さん(木南晴夏)は、彼女が勤める会社の廊下を歩いている。一方、マンガの田中さんは現実の場所ではなく、どこか抽象的な空間にいるように見える。マンガには「絶対 何かやってる」という文字が書き込まれているが、読み進めていくと、どうやらこれは田中さんの同僚の倉橋朱里による言葉であるらしいことがわかってくる。したがって、ここに描かれている田中さんの後ろ姿は、それ自体が朱里の脳内にあるイメージを表現したものだと考えられる。