原作の映像化〝忠実〟は幻想 必要なのは〝納得〟だ 「セクシー田中さん」の場合
捉え方によって変わる「忠実」の度合い
それに対して、ドラマ版の田中さんはあくまでも現実に存在する会社の廊下を歩いており、このあと、朱里(生見愛瑠)がいるフロアへとやってきて、彼女のそばを通り過ぎていく(田中さんが持っているファイルの色が変わっているため、その前にどこかに寄っている可能性は高い)。見かけ上は同じようでも、それぞれの画面が置かれているコンテクストは大きく異なっているのである。 ただ、見方を変えればドラマはドラマなりに「絶対 何かやってる」という朱里の言葉を取り込んでいるとも言える。「何か」とは「ベリーダンス」にほかならないわけだが、ドラマではこのショットに至る前に、ベリーダンスの衣装に身を包んでメークを施し、その後、舞台への階段をのぼっていく田中さんの姿を捉えている(それが誰の視点からのものかは明らかではない)。表現方法は異なるものの、OL姿の田中さんとベリーダンスを結びつけている点はいずれも共通していると言える。ことほどさように、原作に「忠実」であるか、それとも「改変」(多くの場合は「改悪」を含意する)しているかは、一義的に定まるものではなく、捉え方によって(つまりは人によって)変わるのである。
画面、音、誰が演じるか、どこから撮るか……
さて、この二つの場面の比較をもう少し続けよう。ドラマ版ではじっさいに田中さんが歩くのに合わせて、彼女の長い髪が左右に小さく揺れているが、マンガでは髪が大きく揺れている瞬間を切り取っている。しかし、この場合はむしろ静止画であるマンガの絵の方に、より動的な印象を感じる(これには彼女の手の位置も大いに関係している)。こだわりの強い人であれば、タイトルの文字フォントの違いにも反応するところだろう。字体が変われば与える印象も当然変わってくる。見開きページの片方にタイトルを寄せているマンガに対して、ドラマでは田中さんを左右から挟み込んでいる。この方式は第2話以降も踏襲されており、連続ドラマを枠づけるように機能していく。 そもそも、文字をビジュアルや音声に置換し、静止画を動画に変換した時点で、両者は別物にならざるをえない。大小さまざまに配置されていたマンガのコマは4:3なり16:9なり12:5なりの矩形(くけい)に押し込まれ、無音の世界には音が鳴り響く。たとえ原作とまったく同じセリフとエピソードを原作の順番通りに脚本化したとしても、誰がどのように演じるか(演じさせるか)、それをどこからどのように撮影するか、どのような音響(音楽)をつけるか等によって、視聴者に与える印象はまったく異なる。だから、仮に原作のセリフを一言一句そのまま脚本に起こしたとしても、それで「忠実さ」が担保されるわけではない。メディアの変更は不可避的に「改変」をともなうのである。