原作の映像化〝忠実〟は幻想 必要なのは〝納得〟だ 「セクシー田中さん」の場合
「我慢」や「妥協」であったとしても
映像化された作品の評価は、原作者の意向とは必ずしも関係がない。とはいえ、なんらかの形で納得してもらう必要はある。何と言っても、原作者と原作が存在しなければ、その企画自体が成立しえないのだ。道義的にも、それから法的にも、原作者の意に背くような映像化は進められるべきではない。 一口に「納得」と言っても、その内実はさまざまである。「妥協」や「我慢」と言った方が事態をより適切に表している場合も当然あるだろう。原作者も満足し、ドラマに携わった俳優やスタッフも満足し、スポンサーや視聴者もまた満足するような三方よしの作品はめったに生まれるものではない。どれほど仕組みを整備したところで、人間が人間である以上、今後も原作の映像化をめぐる不満やトラブルが尽きることはないだろう。だが、たとえ虚構に過ぎないとしても、というより虚構だからこそ、関係者の最低限の「納得」は確保されなければならない。まかり間違っても、原作者が命を落とすような映像化などあっていいはずがない。芦原妃名子先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。 注1:「『セクシー田中さん』調査報告書(公表版)」20ページ、最終閲覧日2024年6月8日 注2:同報告書、23ページ
映画研究者・批評家 伊藤弘了