原作の映像化〝忠実〟は幻想 必要なのは〝納得〟だ 「セクシー田中さん」の場合
原作マンガを直接撮影した「忍者武芸帳」
大島渚の「忍者武芸帳」(1967年)のような極端なケースであってさえ、その桎梏(しっこく)からは逃れられていない。本作は、白土三平のマンガ「忍者武芸帳 影丸伝」を(吹き出し部分を極力避けつつ)直接撮影してつなぎ合わせた実験的なアニメーション映画として知られている。つまりは静止画の連続なのだが、俳優・声優・作曲家らがセリフを吹き込み、さらにカメラの動きや効果音を足すことによって、アニメーションの体裁をとっている。公開当時から今日に至るまで、「忍者武芸帳」はマンガと映画のメディアの特性を議論する際に必ずと言っていいほど参照されてきた作品である(具体的な議論の内容については、たとえば三輪健太朗「マンガと映画 コマと時間の理論」[NTT出版、2014年]を参照されたい)。 原作に忠実かどうかという場合の「忠実さ」にはかなりの幅があり、解釈の余地がある。考慮すべき係数があまりにも多すぎるうえ、人によってどの部分を重視するかも異なる(「忠実さ」がまったく重視されない場合もあるだろう)。映像化に際してオリジナルの設定や登場人物が追加されて、一見したところはまったく原作と別物のように見えても「原作の精神に忠実である」といった言い方をすることもできてしまう。原作からの乖離(かいり)をどの程度許容するかは、原作者によって異なる(原作者がNOと言えばもちろん認められない)。また、たとえ原作者がOKを出していても、原作ファンが満足するかどうかはまた別の話である。
見せ方が違って当然
もちろん、改めて説明するまでもなく、上記のような事情など先刻承知であるという人がほとんどだろう。じっさい、先ごろ日本テレビが公表した調査報告書でも、原作者の芦原妃名子が「漫画とドラマは見せ方が違って当然なので、本来なら、ドラマはドラマのアレンジを加えてより良い物にして頂くのが1番と承知しております」と考えていたことが明かされている(小学館関係者から日本テレビドラマ制作関係者に送られたとされるメールの文面=注1)。また、別のメールに添付された原作者作成のWord文書には「漫画とドラマは媒体が違うので、本当はドラマ用に上手にアレンジして頂くのがベストだって事は、私も良く理解してるんですよ」という記述も見られる=注2。 テレビドラマを制作するにあたって、(結果としてそうなれば御の字だが)原作者を満足させることは究極的な目標ではない。なるべく原作通り(とはどういうことかは、先ほど来見てきたように決して一意には定まらないが)にすることでうまくいくケースもあれば、監督や脚本家の色を前面に出すことが成功につながるケースも当然ある。メディアを変換したことによって生じる新たな効果にこそ注目が集まり、それが評価される場合もまた往々にしてある。