【悲惨だった朝鮮半島】戦後79年、知られざる歴史 南北で分けた終戦直後の在朝鮮日本人たちの運命
ソ連兵が起こす惨状
満州での惨劇と同様にソ連兵による婦女子への暴行は凄まじく、「マダム・ダワイ!(女を出せ)」と叫びながら、見境なく襲いかかった。日本窒素肥料興南工場に勤務していた鎌田正二氏の手記には、ソ連兵の集団が日本人宅に押しかけ、夫に拳銃を突きつけ部屋の外に連れ出し、子供を放り投げた後、残った母親を性的暴行を加える場面が描かれている。 「死んだようになった女は、身を伏したまま泣いている。夫は歯を食いしばって、すごい形相をしていたが、やにわに包丁を手にソ連兵を追おうとする。近所の人たちは、『がまんしろ』と押しとどめる。みんなに迷惑がかかるからと頼む」 このような惨劇は至るところで見られた。戦後まとめられた「北鮮戦災現地報告書」によれば、咸興だけで「昼夜別なく不法侵入による盗難・暴行・陵辱事件が頻発、この届出が1日20件から30件」を下らなかったという。 そして、36年にわたり日本人に支配された朝鮮人も牙を剥いた。ソ連と国境を接する北朝鮮地域では共産主義の影響が強く、ソ連が朝鮮人の共産主義者による人民委員会を通じて間接統治を始めたことも大きく影響した。 後に北朝鮮の最高指導者となる金日成が初代司令官を務めた保安隊は、検問と称して日本人から物を奪うだけではなく、警察官など朝鮮人から目の敵にされていた者を連行した。彼らは「厳しい拷問にあって見るかげもない死体となって返された」という。 城内氏の著作では、これら北朝鮮地域で日本人を襲った悲劇とともに、戦中は「アカ」(共産主義者)と白眼視されながらも、ソ連軍や朝鮮人と丁々発止の交渉を行い、日本人を集団脱出させた松村義士男(34歳)の功績に光が当てられている。
なぜ、南北で状況は異なったのか
終戦直後、朝鮮半島に残された日本人の運命が38度線という見えない境界線によって隔てられたことがわかっただろう。だが、境界線の南北で何が異なり、運命に影響を与えたのだろうか。 一つは、統治機関、特に軍隊の存在だ。南朝鮮地域では、数日間の混乱は見られたが、日本軍が治安を維持したため、日本人の虐殺など悲惨な報復はほとんど起こらなかった。また、米軍進駐後は、米軍政庁が軍政を敷き、日本人の早急な帰国を命じて、それを実現した。 一方の北朝鮮地域では、ソ連軍に武装解除された日本軍がシベリアに送られたため、民間人は軍隊による庇護を受けることができなかった。 もう一つは、共産主義者による支配だ。南朝鮮地域では、左右が集まった朝鮮建国準備委員会を共産主義者が乗っ取り、一時は朝鮮人民共和国の建国を宣言したが、米軍はこれを認めず、共産党を非合法化した。 一方の北朝鮮地域では、ソ連と朝鮮人の人民委員会が支配権を持ったので、日本人への虐待が階級闘争として正当化され、被害を大きくした。 しかし、筆者は、朝鮮半島のみならず、外地での日本人の惨状に目を向けるとき、なぜそこに日本人が存在していたのかという点を深く自省しなければならないと考える。現在の価値観で過去を裁くことは愚かだが、他国を侵略した国家と国民が恨みを買うという単純な事実は、現在のロシアを見ても明らかだろう。 最後に、日本人の韓国と北朝鮮に対する感情が大きく異なるのは、本稿で記した終戦直後の日本人に対する取り扱いが大きく影響しているのではないかと指摘したい。
吉永ケンジ