【悲惨だった朝鮮半島】戦後79年、知られざる歴史 南北で分けた終戦直後の在朝鮮日本人たちの運命
変わる朝鮮人と日本人の態度
総督府庁舎第1会議室に集まった職員は起立したまま玉音放送を聴いた。東京から直接放送されたため、雑音がひどく聞きづらかったという。 東京帝国大学法学部を卒業して高等文官試験に合格した崔夏永農政課長ですら、「天皇の声が小さくて、なにを言っているのか正確に理解できなかった」と述べているのだから、一般の朝鮮人はなおさらで、「日本が連合国に無条件降伏することを理解できた朝鮮人は多くなかった」という状態だった。 これは日本人も似たようなもので、無条件降伏したことは理解できても、明日、いや数時間後にどのような未来が到来するのか、誰も知る由がなかった。 総督府に臨時雇用されていた長田かな子氏(21歳)は、当時の日本人にとって恐怖の対象であったソ連のことを考えると、「どうすれば苦しまずに死ねるのかという、重く辛い思いが頭を離れなかった」と回想している。 運命の8月15日について、京城では万歳デモは起こらず、平穏だったという証言や研究が多い。しかし、長田は、「これまでと全く違うという感じを受けた。通りには白い朝鮮服を着た人々が闊歩し、家々には日章旗に四卦を描いた太極旗がはためいていた。街の人並みはより多くなり、人々の顔には生気が満ちあふれていた」と、やや違った感想を述べている。 朝鮮人が解放の喜びを徐々に表す一方で、日本人の態度は一変し、朝鮮人に媚びはじめ、どこに行くにも2人以上で動き、さらには手に小さな太極旗を持つようになった。 そして、総督府では日本人職員と朝鮮人職員が水と油のように分離し、一緒に会議することがなくなり、警察専用電話の交換・接続や車両の運転を行なっていた朝鮮人が欠勤したり、時には露骨に命令を無視したりするようになったという。 玉音放送からわずか数時間で、日本が36年かけて築き上げた統治機構が音を立てて崩れ始めようとしていた。
在朝鮮日本人の運命
日本の支配体制は崩壊を起こしていったが、総督府が懸念していた日本人に対する報復は極めて少なかった。 むしろ、日本人よりも朝鮮人の巡査や下級官吏への憎しみが大きく、「憲兵の手先、特高の手先だった連中がたくさんやられた。素早く逃げた奴は助かったが、捕まった奴は全員死んだ」「解放は日本の手中から脱する幸福である一方で、憎しみを晴らす機会でもあった」という、朝鮮人の証言が残されている。 しかし、敗戦による市中の混乱は、わずか2日で収まった。8月17日以降、無力となった警察に代わり軍が治安維持に乗り出すと、総督府は治安と行政権の回復に成功する。そして、9月9日の米軍との降伏文書調印式をもって、日本の朝鮮半島支配は終焉を迎えた。 当時の朝鮮には、在朝鮮日本人2世・3世も多く存在し、彼らにとって朝鮮は文字通り「故郷」だった。彼らは終戦後も各地で「日本人居留民団」を組織し、そのまま朝鮮に居住することを望んだが、他方の朝鮮生活が長くない人々は帰国を急ぎ、それぞれが残留派と帰還派に分かれて対立することになる。