「闘将」星野仙一が、すい臓がんでも抗がん剤を拒んだ「涙の理由」
「わしを助ける気があるんか?」
中日、阪神、楽天の監督として歴代11位となる通算1181勝を手にし、13年には楽天に球団創設初のリーグ優勝と日本一という歴史も刻んだ星野仙一さん。そのラストシーンで前日に先発完投していた田中将大をマウンドに上げた采配は今も野球ファンの記憶に鮮やかだ。 【写真】大谷翔平を支える、妻・真美子さんの「素顔」! 楽天の日本一秘話、そして、教え子たちに戦う姿勢を植えつけた闘将らしい壮絶な最期を、懐刀だった早川実氏が明かす。 前回記事『「ユニフォームってなにかわかるか? 戦闘服だからな」...最も近くにいた男が明かす、「燃える男」星野仙一がただ一度だけ土下座した「衝撃の真相」』では、星野さんの腹心も目を疑った衝撃場面や立浪和義現監督に受け継がれた教えなどについて詳しく紹介しています。 西濃運輸から中日に入団した早川氏の現役生活は4年と短かったが、引退後も裏方として球団に残り、星野さんが監督に就任した87年、1軍コーチ補佐兼監督付広報に就いた。以来、投手コーチやスカウト、監督付広報として長く星野さんに仕えた。 「星野さんが2度目の中日監督を退かれた後も私は球団に残っていましたが、星野さんが楽天監督1年目の秋、電話がかかってきて『わしを助ける気があるんか』と言われ、中日を退団して楽天のスカウトになりました。 スカウト業務があるので星野さんに会うのは月に1回、報告に行ったときくらいでしたが、苦慮していたのは選手たちに負け癖がついていたこと。『試合に負けても悔しさが表に出てこない。弱いチームの典型だ。そこを変えないといかん』と話されていましたね」 星野さんは選手の意識を根底から変えていった。1年目の5位に続き、2年目もBクラスの4位に終わったが、勝率は5割を守り、首位とのゲーム差も23.5から7.5へと縮まった。 「星野さんがよく言っていたのは『成績がよくなるまでが首脳陣の力だ』ということ。チームが勝てるようになれば、こちらがあれこれ言う前に選手が自発的に動くようになるんです」