「闘将」星野仙一が、すい臓がんでも抗がん剤を拒んだ「涙の理由」
パーティーではなく、生前葬
「それ以前から田中の志を理解していて『引き留めてどうのというのは俺の頭の中には端からないぞ。最後にこれだけのことをやって行くんだ。止める理由なんてない。最大の応援をしてあげようや』と。 田中は野村克也さんにいろいろな野球を教えてもらったと思います。でも、それとはまた違った、気持ちを表に出して、理屈だけじゃない野球を星野さんから学んだと思います」 恩師の後押しを受けた田中は名門・ヤンキースでもエースとして躍動。17年11月に東京で開かれた星野さんの「野球殿堂入りを祝う会」に駆けつけている。 「野球界はもちろん、政財界や芸能界からもたくさんの方が来てくれました。ただ、それまでのパーティーとは違ったところがありました。普段は私が『この人が来ていますよ』と伝えても『おう』と返すくらい。でも、このときは『ちょっと呼んでくれ』と控室に招き入れて、時間が許す限り話をしたり、一緒に写真を撮っていたんです。今、思えば、あれは生前葬だったんでしょうね」 周囲にはひた隠しにしてきたが、星野さんは前年の16年7月にすい臓がんを患っていることが判明していた。そのことは早川氏や甥である阪神の筒井壮コーチですら聞かされていなかった。
闘将としての誇り
「知っていたのは2人の娘さんと、医者をしているその旦那さんくらいだったでしょうね。殿堂入りを祝う会は東京で行った3日後の12月1日に大阪でも開いたんです。でも、そのときは壇上に最後まで立っていられなかった。途中で降りてきて、最後のセレモニーのときにまた上がったんですが、私たちも病気のことは知らされていなかったので『無理しないでくださいよ』と言うしかなかった。 亡くなるのは、そのひと月と3日後の翌年1月4日。まさか、そんなにすぐ亡くなるなんて思いもしませんでした。でも祝う会を間隔を詰めて行ったのは、星野さんが自分でも時間があまりないことを覚悟していたからだったかもしれません」 星野さんは年末にハワイに行くことを恒例としていたが、「今年はちょっと腰が痛くて、飛行機に乗れそうにないわ」と断念。病魔は進行し、心の平静を保つことも難しくなっていたという。 「娘さんがおっしゃっていましたが、星野さんは『飲んだら髪の毛が抜けるやないか』と言って抗がん剤を飲まなかったんです。娘さんが飲んだ方がいいと薬を持っていっても払いのけ、娘さんが食い下がると星野さんの手のひらが顔に飛んできたそうです。闘病のイライラを娘さんにぶつけてしまっていた。 それでも弱音を吐くことはなく、薬に頼らず病気と最後まで闘った。髪の毛も真っ白になっていたのに、前のところをちょっとだけ残して、あとは黒く染めて、容姿が変わらないようにしていたそうです」 なぜ、星野さんは病気の苦しみよりもその点にこだわったのか。 「いつ取材に来られても出られるような姿でいたかったそうです。弱みは一切、見せない。最期まで星野仙一として生き抜かれたんです」 殿堂入りを祝う会で「ずっと野球と恋愛してきてよかった。もっともっと野球に恋をしたい」とスピーチした闘将は、今も野球界、教え子たちのプレーを優しく見守っていることだろう。 ・・・・・ 【もっと読む】今日の名言・星野仙一 厳しかった怒鳴り声に隠れていた愛情
週刊現代(講談社)/鷲崎文彦