「ギフテッドを美談だけでは語れない」看取り医がみた「天才三味線奏者」の暴力…そして、それを受け止める夫と、もう一人の男が暮らす「奇妙な生活」
粗暴な天才三味線奏者
華絵さんは75歳で若年性の認知症を疑われていた患者だった。「50代後半から年々症状が悪化している」と夫は訴えていた。 真夏日が続いた八月の午後、初回の診察に私は訪れた。チャイムを鳴らしたが誰も応答せず、ドアの鍵も閉まっているため、家の周囲をたどり裏手に回ると、日当たりのいい部屋にサングラスをかけた華絵さんと上半身裸の初老の男がいた。向こうもこちらに気づき窓を開けた。 「診察に参りました」 と声を掛けると、女性が焦点の合わない目で私の方をみて「あがれよ」と一言発したので、私は縁側から部屋に入った。 初老の男は私に構わず上半身裸でソファに座っていた。 「御主人ですか? 初めまして」と挨拶をすると、華絵さんは「どこが、夫だい。なあ」と男に目を配った。 「僕は三郎です。(華絵)先生の弟子なんです。ねっ、師匠!」と笑顔で答えた。 部屋を眺めると壁に「津軽三味線 雪華」と書かれた看板が貼られ、その下に三味線が一挺、壁に立てかけられている。それ以外に包みにカバーされた状態のものが二挺置かれていた。 華絵さんに「津軽三味線のお師匠なのですか?」と尋ねると、 「お前も弟子になるか? 月謝を1ヵ月免除してやるぞ。おい、三郎!」といって、弟子に手で何かを促した。 三郎さんは空調のリモコンを手渡す。その瞬間、手渡されたリモコンを握り締め、三郎の額を手加減なしでどつく。 「バカ野郎。リモコンのわけがあるかっ! 三味線をもってこい」 三郎さんは「すいません! 師匠、どうぞ」といって素早く、両手で抱えて手渡す。 かなり、大ぶりな三味線だった。三味線を持った華絵さんの目つきが変わる。何かが憑依したような目つきだった。
圧倒的だった演奏
真夏の昼下がり、まだ初診が始まっていないが、凄い展開になってきた。華絵さんがただ三味線を持っただけだというのに、ピリピリとした空気が部屋全体に張り詰めている。固唾を呑んでみていると、華絵さんは手にバチを持ち、 「風土は曲を作り、曲は風土を作ります…」 と口上を述べ、叩くように激しい演奏を開始した。 私に三味線の良し悪しを判断できるような聴覚も経験もないが、素人の私でも、その音色から荒れ狂う冬の日本海、歩くこともままならない吹雪を感じずにはいられなくなり、何より彼女の内からあふれ出る激情に圧倒された。それほどの迫力だった。 ところが華絵さんは、1曲弾き終わることなく手を止めてしまった。 「ダメだ。体がついていかねぇ。年はとりたくねぇな…」 アゴで弟子の三郎さんを指図して三味線を渡すと、「お前、弾いてみろ」と促したのである。 三郎さんは演奏を始めたが、素人目でも酷い演奏だとわかった。一体、何を習っているのかと疑ってしまう。すると「下手クソ!」と華絵さんは三郎さんに蹴りを入れた。 「すみません!」 謝る三郎さん。しかしどこかうれしそうだ。2人の関係性が謎である。共依存の関係にあるのか、それともマゾヒズムなのか…。うまく理解ができない。そこへ夫の武夫さんが現れた。 別室で彼と話すことにした。華絵さんは外を徘徊はしないまでも落ち着きがなく、夜中も部屋で騒いだり、家の中をうろついているという。武夫さんも暴力を振るわれているようだった。「認知症ではないかと外来に連れて行こうとしたけれど、抵抗されて断念した」そうだ。一方で部屋に鍵を取り付け、篭っていることも多いという。 そういえば、部屋の柱に7個ほど無茶苦茶に南京錠が取り付けられていた。 「奥様が自分で取り付けたのですか?」と聞くと、「いや、今いた三郎が華絵の命令でやったんです」という。 「三郎さんは三味線のお弟子さんだと聞きましたが?」 「ああ、あの人も困った人で、いい歳をして大工の見習いのようなことをしていて、いつも仕事が終わったり、仕事がない日は、ここにきてしまうんです。彼は婿養子の立場なのですが、自宅に自分の居場所が、どこにもないようでして…」 あの乱暴な鍵の取り付けは、彼がしたのか…。大工の仕事とは思えぬ雑な仕上がりだった。 乱暴で自分勝手な天才三味線奏者の華絵、どつかれるのを悦びながら家に入り浸る三郎、妻の暴力を許容し、入り浸る男に柱を魔改造されても怒らない夫の武夫。 どこかこの家は奇妙だと感じた。よくわからない関係性の3人に翻弄されながら、初診が終わった。 この段階では、華絵さんの暴力癖は認知症によるものという前提で物事を組み立てていたため、私は余計に混乱していたと思う。じつは彼女がギフテッドの持ち主であり、反社会的行動をずっと前から繰り返していたことを知ったのは、華絵さんの甥と偶然、接触できてからのことだった――。 つづく後編記事「「私たちは普通の母親が欲しかった」、家を出た娘が語る「石や包丁を投げる母」と、「天才的な演奏」、そして「妹の新興宗教への入信と失踪」」では、につづきます。
平野 国美(医師)
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