「我々は澄んだ目を取り戻すことができる」カンヌ国際映画祭総代表、ティエリー・フレモーが語る映画の始まりと日本映画の未来
「我々は澄んだ目を取り戻すことができる」 リュミエールの映画を現代に蘇らせたワケ
―――日本では黒沢清監督がリュミエール作品の素晴らしさについてことあるごとに語っており、私自身、黒沢監督の著作によって、リュミエール兄弟の映画を真剣に観るようになりました。映画を志す若い人たちが、リュミエールの作品を観ることの意義について、どのようにお考えでしょうか? 「リュミエールは『カメラをどこに置けばいいのか?』と自問自答しながら作品を作りました。それは形式と内容の両方に関わる、倫理的な問いかけです。今日では無数の映像が存在しますが、リュミエールのやり方はワンシーンです。そのワンシーンには意味がなければいけないし、世界について何かを語っていなければなりません。それは、何を撮るべきかという内容に関わると同時に、いかに撮るべきかという技術、いわゆる形式に関わる問題でもあります。 例えば、先ほど言及されたヴェネツィアの映像を興味深いものにしているのは、あのゆっくりした画面の動き、トラッキングショットの効果です。映画を志す若い人たちも、リュミエールと同じように問い、同じような考え方をすればよいのではないでしょうか。リュミエールと同じように、カメラをどこに据えるべきかと思考を巡らせ、倫理的な問いかけをするのです」 ―――映画をスマートフォンで視聴する若者が増えています。また、倍速で映画を視聴する人も少なからずいるようです。そのような映画の見方について、フレモー監督のお考えを伺えますと幸いです。 「リュミエールは、2度、映画を発明したと言えるでしょう。まずは機械(カメラ)を発明し、さらに映画館を発明しました。映画館の意義は、不特定多数で大きなスクリーンに投影された映像を見ることです。映画館では、隣に人がいるので、個人で視聴する時よりも、緊張感を持って映画を鑑賞することになります。真っ暗な会場で、観客はその作品に囚われる身となります。ある程度の忍耐を強いられながら映画と正面から向き合い、作品と関係性を築かなければならないのです。スマートフォンから離れて、およそ2時間にわたって1つのストーリーに身を委ねる。そうすることで、鑑賞者は、映画を観る前と観た後では違う人間に変化します。映画館にはそうした意義があり、守りつづけなければならないと思っています」 ―――本作を観ていると、フレモー監督による的確なコメンタリーによって、映像を豊かにしている細部への感性が刺激されます。その点、映画の見方を学べる作品だと思います。今回の映画を作る上でどのようなことを意識されましたか? 「私はシネフィルですし、映画の歴史もよく知っています。ですが、リュミエールの映画を観るには原点に戻ってやりなおす必要がありました。私は映画の分析の仕方を学んでいましたし、記号学も学んでいましたが、今回の映画を作るにあたっては、自分がそれまで培ったすべての知識をいったん脇に追いて、純真さを取り戻す必要があったのです。 というのも、リュミエールの映画自体が純真なものだからです。純真なものをよく観るためには、視点にも純真さが必要になる。また、純真さに加え、寛容さ――いろいろなものを受け入れる懐の深さ――も必要です。というのも、無声映画はとてもシンプルです。とにかくじっと観なければなりません。画面に映っているすべてのものを観なければならないのです。それに比べて、現代の映画では多くの場合、観客は一つの映像をじっと観ることができません。ショットの切り替わりが速すぎるからです。 私はリュミエールの作品を集めることによって、彼らの意図を要約したいと思いました。世界に対する彼ら自身の視点を見せたかったのです。シネフィルである私にとってでさえ、この作業は、目を澄んだものにしてくれました。私たちの目は汚れています。街にあふれる広告や、スマートフォンのせいで私たちの目はもはや曇ってしまって、澄んでいません。しかし、リュミエールの映画を観ることで、我々は澄んだ目を取り戻すことができるのです」